VJの活動で当局に目を付けられたジョシュアは、反政府デモが拡大する前にビルマからタイに逃れ、他のVJたちの連絡係になる。チェンマイにスペースを確保した彼は、壁にアウンサンスーチーの写真を掲げる。彼女は著書やインタビューのなかで、恐怖から解放されることが自由であり、恐怖に屈服している限り人間らしく生きられないということを繰り返し語ってきた。ジョシュアと他のVJたちは、恐怖を明確に意識し、向き合っている。だから簡単にはぶれない。反政府デモのなかで久しぶりに姿を現したアウンサンスーチーの映像を目にしたジョシュアはこう語る。「彼女のおかげで国民は恐怖を忘れた」
そしてもうひとつは、「真実」に対する視点である。この映画に描き出されるのは2007年の反政府デモだけではない。ジョシュアは冒頭で彼がまだ子供だった1988年に起こった民主化運動と武力鎮圧の映像を見つめ、「彼らは勇敢だった。しかしその死は無意味だったと感じる」と語る。次に、2007年の反政府デモが起こる前の町の様子をとらえた映像を見つめ、「デモの名残りは何もない、すべて忘れ去られたかのように」と語る。このプロローグは、2007年の反政府デモという事件だけではなく、その後に私たちの関心を振り向ける。
■■事件を消し去る軍事政権と真実を取り戻すVJ■■
では、「その後」は真実にどのような影響を及ぼすのか。女性ジャーナリスト、エマ・ラーキンが書いたノンフィクション『ミャンマーという国への旅』では、1988年の民主化運動の後で、軍事政権が事件をどのように処理したかが明らかにされている。
彼らはまず、事件の実態を消しにかかった。「軍隊が出動して、町から事件の痕跡を拭いさり、公共のビルを塗りかえた。文字通りの歴史刷新という名目で、民衆は自分の家屋を自費で塗りかえることを強要された」。さらに、ビルマ中の通り、町、市街の名前を変えた。「軍政府は歴史の書き換えをやっていたのだ。地名が新しくなれば、旧名は地図上から消えてなくなる。そして最終的には、人の記憶からも消え失せてしまう。こういったことが可能であれば、過去の出来事を消し去ることが可能なはずだ」。そして、体制側のスポークスマンは、事件についてこのようなコメントを発表した。「真実はある一定の期限のなかでのみ真実と言えるのだ。かつて真実であったことも、数多くの年月を経た後ではもはや真実とは言えない」
こうした事実を踏まえてみると、映画のプロローグがより意味深いものになるはずだ。そして、VJがどんな危険に身を晒しても真実を記録しようとする理由も明確になる。
ジャーナリストのラーキンは、ビルマ時代のジョージ・オーウェルの足跡をたどるためにこの国を訪れ、そこに『一九八四年』の世界を見出した。この小説には、「過去を支配する者は未来まで支配する。現在を支配する者は過去まで支配する」という党のスローガンが出てくる。それはまさにビルマの軍事政権の姿であり、VJたちは、映像の力で現在を取り戻し、消し去られた過去を再生し、未来を切り拓こうとするのだ。 |