オンラインで見つけたあるレビューによれば、
人間ダライ・ラマよりも生仏としてのスピリチュアルなイメージが際立つ作品になっているという。これは、ハラーとの親交を通してきわめて人間的なダライ・ラマの姿が描かれる『セブン・イヤーズ〜』とは対照的といえるかもしれない。ちなみに、スコセッシはオンラインのインタビューで、
仏教からひもとかれた非暴力の姿勢を貫くことができるダライ・ラマという存在に強く惹かれたと語っている。
これに対して『Red Corner』は現代の中国が舞台になる。リチャード・ギア扮するのは、北京で衛星放送の番組を売り込もうとしているショウビズ関係の弁護士。彼は中国人のモデルと一夜を過ごすが、彼女が死体で発見されその容疑者として逮捕される。殺害された娘は中国の高官の娘であることがわかる。
彼は、官憲から容疑をすんなりと認めればいくらかの減刑もあり得るが、無実を主張するようなことがあれば命取りになるといわれ、処刑のビデオまで見せられる。しかしもちろん彼は無実を主張し、その運命はシェンという女性の国選弁護人に委ねられ、彼女は危険にさらされながらも事件の真相を究明し、自由を守るために奮闘していく。
この女性弁護人に扮するベイ・リンは、中国で女優をしていたが、数年前に演技の勉強をするためにニューヨークに渡った。そしてこの『Red Corner』で大きな注目を浴びることになった。しかし、オンラインの記事によれば、香港や中国で映画の公開が禁止されたばかりか、
すでに出演が決まっていた2本の中国人監督による作品がキャンセルされた。さらにパスポートも無効にされ、許可がないかぎり中国に戻ることもできなくなり、中国に暮らす家族にその影響が及ぶことを危惧しているという。
またこれら3本の映画が微妙な状況を背景に作られたことはそのロケ地にもあらわれている。チベットが舞台の2本はチベットに近いインドで撮影することが計画されていたが、インドも軍事防衛上、中国と微妙な立場にあり、おいそれと撮影許可を出すわけにいかない。そこで、『セブン・イヤーズ〜』と『Kundun』は、
それぞれ景観がチベットと非常に似ている場所があるアルゼンチンとモロッコで撮影されている。『Red Corner』も、チベット独立とダライ・ラマを支持するギアが中国への入国を許されないため、中国では撮影されていない。
3本の映画は言うまでもなくそれぞれ独立した作品ではあるが、すでに触れたように国際的なキャンペーンなどを通して結びつけられている。そうなると筆者が気になってくるのは、3本の映画に描かれる世界が作るコントラストである。
『セブン・イヤーズ〜』や『Kundun』は、ダライ・ラマの即位や新しいダライ・ラマの発見といったところから物語が始まるが、この時代はある意味でチベットにとって特別な時代ともいえる。それ以前にもチベットは英国や清朝など外部からの様々な脅威にさらされ、ダライ・ラマ13世はチベット軍の近代化に着手していた。
しかし、中国が軍閥、そして国民党と共産党の争いで混乱におちいると、チベットでは外部の脅威という問題は忘れられ、世界に背を向け、孤立した状況のなかで平和を享受するようになる。ダライ・ラマ14世はこのたなぼたともいえる平和な時期に幼年時代を送った。そして中華人民共和国の成立とともに侵攻が始まるのだ。
そこで映画からは、ダライ・ラマの人間的側面が描かれるにしろ、生仏としての存在が描かれるにしろ、平和を求める宗教の世界と共産主義体制の対立という構図が浮かび上がってくる。また『Red Corner』はその構図をさらに強調するともいえる。
この言葉はその構図とも関係すると思うが、後にダライ・ラマはこんなことも語っている「一般に、私たちチベット人はたいそう信心深く、すぐれた修行者も数多く存在する。しかし、人間の努力もなしで、ただ祈ることによって一国が救われると思い込んだりしたのも、限られた知識しか持っていなかったためだ。
この観点から言えば、宗教感情は実際のところ障害となる」(ジョン・F・アベドン著『雪の国からの亡命』より引用)
それゆえに亡命の身であるダライ・ラマは、チベットのために祈るだけではなく奔走しているに違いない。しかしその努力のひとつの成果がこれらの映画であるとするならば、それは皮肉なことではなかろうか。
というのも、中華人民共和国が成立したとき中国の目前の関心事は台湾とチベットになり、チベットについては宗教と共産主義体制の対立の構図が生まれた。そしていま、香港が返還されるという大きな節目を経てあらためて中国の目が台湾とチベットに向くとき、映画の世界を通してこの対立の構図が再現されているように見えるからだ。
もちろんこうした映画を通してチベットの問題に対して国際的な世論が盛り上がることは間違いない。しかし、映画と政治はイコールではないだけに、この40年間のダライ・ラマと亡命政府が具体的に進めようとしてきた平和的な解決のための努力の積み重ねが、一気に単純化して逆戻りしてしまうような危うさもはらんでいるように思えるのだ。 |