ジョシュア・オッペンハイマー・インタビュー
Interview with Joshua Oppenheimer


2014年 渋谷
アクト・オブ・キリング/The Act of Killing――2012年/デンマーク=ノルウェー=イギリス/カラー/121分/インドネシア語/ヴィスタ/DCP/5.1ch
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(初出:「キネマ旬報」2014年5月上旬号)
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世界を私たちと彼ら、善人と怪物に分けるのでなく
――『アクト・オブ・キリング』(2012)

 

■■アンワル・コンゴとの出会い■■

 60年代のインドネシアで共産主義を排除するために行われた100万人規模といわれるジェノサイド。世界に衝撃を与えたジョシュア・オッペンハイマー監督の『アクト・オブ・キリング』は、この悲劇が過去のものではないことを私たちに思い知らせる。北スマトラで取材を進めていたオッペンハイマーは、虐殺の実行者たちがいまも大手を振って町を闊歩し、過去の殺人を誇らしげに語るのを目にし、自分たちで好きなように殺人を再現し、映画にすることを提案した。

 もちろんこれは加害者であれば誰にでも通用するアイデアではない。映画作りの先頭に立つアンワル・コンゴは、映画館を根城にするプレマン≠ニ呼ばれるギャングだった。アメリカ文化に強い影響を受けている彼とその取り巻きは、映画スター気取りで殺人者を演じ、虐殺を再現していく。この映画で重要な位置を占めるのはそんなアンワルの存在だが、オッペンハイマーが彼に出会うまでには紆余曲折がある。

「私が最初にインドネシアに行ったのは、プランテーションの労働者たちが映画を作るのを手伝うためでした。その『The Globalization Tapes』(03)を作っているときに、労働者たちが65年のジェノサイドの生存者であることを知りました。ベルギーの企業のために働く彼らは、防護服もないまま有害な除草剤を散布し、その毒性で肝臓をやられ40代で亡くなった人もいました。企業が扱っているのは、私たちの身の周りにある化粧品などに使われるパーム油です。そして労働者が組合や署名などで抵抗しようとすると、『アクト・オブ・キリング』に登場する準軍事組織、パンチャシラ青年団が企業に雇われ、彼らを脅迫や暴行で黙らせるのです。彼らは、両親や祖父母が組合員だったというだけで共産党の支持者とみなされパンチャシラ青年団に虐殺されているので、そういう脅迫により恐怖を感じるのです。私は、西欧や日本の日々の生活というものが、いかに他人の苦しみの上に築かれているのかを実感しました」


◆プロフィール◆
ジョシュア・オッペンハイマー
1974年9月23日、アメリカ、テキサス州生まれ。ハーバード大学とロンドン芸術大学に学ぶ。10年以上政治的な暴力と想像力との関係を研究するため、民兵や暗殺部隊、そしてその犠牲者たちを取材してきた。これまでの作品に『The Globalization Tapes』(03、クリスティーヌ・シンとの共同監督)、『The Entire History of the Louisiana Purchase』(98、シカゴ映画祭ゴールド・ヒューゴ賞受賞)、『These Places We’ve Learned to Call Home』(96、サンフランシスコ映画祭ゴールド・スパイア賞受賞)など映画賞受賞歴を持つ映画のほか、たくさんの短編がある。イギリス芸術・人権研究評議会のジェノサイド・アンド・ジャンル・プロジェクトの上級研究員で、これらのテーマに関する書籍を広く出版している。
(『アクト・オブ・キリング』プレスより引用)


 『The Globalization Tapes』には、劣悪な環境にある労働者だけでなく、笑みを浮かべながら過去の殺人について語る人物の姿も映し出される。しかし、オッペンハイマーはすぐに加害者に注目したわけではない。

「生存者たちと一緒に映画をもう一本作ろうということになりました。いまだに権力を持ち続けている加害者たちに囲まれて生きるとはどういうことなのか、なぜいまも恐れなければならないのかというのがテーマでした。ところが軍がすぐに私たちの行動を察知し、脅迫や妨害をしてきたため、生存者は引き下がるしかありませんでした。その一方で私は、加害者たちがそろって過去の殺人を自慢げに語るのを目にし、彼らを撮影していました。その素材を生存者や人権団体のメンバーに見せ、撮影を続けるべきだということになりました。それから二年間、スマトラの各地を渡り歩き、加害者たちを撮り続け、41人目に出会ったのがアンワル・コンゴでした。彼も他の加害者と同じように自慢げでオープンで、どのように殺したのかを再現してみせました。実際に何百人も人を殺した場所でダンスを踊る姿は、政権の本質を露にする最もグロテスクなメタファーになっていました。しかし彼の場合はトラウマが表面に現れていて、自分自身の邪悪なものを踊ることによって振り払おうとしていることは明らかでした。それから五年に渡ってアンワルと彼を取り巻く人々を撮影し、この映画を作り上げたのです」

■■「生存者が撮れなかったから」ではない■■

 ジェノサイドを題材にしたロバート・レメルソン監督のドキュメンタリー『40 Years of Silence』(09)では、過去の体験を語る生存者たちの姿が記録されている。この映画が撮影されたのはジャワ島とバリ島だが、『アクト・オブ・キリング』の舞台となる北スマトラとは状況に違いがあるのだろうか。

「確かに北スマトラでは軍や準軍事組織が大きな力を持っています。西欧や日本の企業が関心を持つガス田やプランテーションなどがある地域ほど、そういう力も大きくなると思います。ジャワ島やバリ島には天然資源があまりありません。ただ、軍の妨害があったことは確かですが、私が加害者を撮り続けたのは、生存者が撮れなかったからではありません。最も差し迫った問題は、加害者が咎められることもなく権力を持ち、あのように語っていること、いま何が起きているのか、そして、人間にとって殺すとはどういう意味があるのかということです。生存者を題材にした映画にはそれを明らかにすることはできません。

 レメルソンの映画には、生存者の過去の体験だけではなく、現在の苦しみが記録されている部分もあります。最もパワフルな瞬間は、少年がいまだに恐怖のなかを生きていることを告白する場面です。でも加害者の存在がはっきり見えてきません。おそらく加害者がオープンで、自慢げに語るとは思っていなかったはずです。個人的な意見を言えば、生存者と加害者が対面する場面をもっと掘り下げるべきだったと思います。インドネシアの雑誌「TEMPO」は、『アクト・オブ・キリング』に触発されて、ジェノサイドを特集した合併号を出しました。60人の記者がジャワ島やバリ島の各地でアンワルのように語る加害者たちを発見し、彼らの告白を掲載しました。この建設的な方法によって、アンワルはスケープゴートにされるのではなく、全国にいるたくさんの加害者の一人になりました。つまり、レメルソンと私の映画の違いは、地域ではなく、問題意識にあるということです」===> 2ページへ続く

 

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