■■認知的不協和という心理■■
インドネシアではジェノサイドの後で、政府によって共産主義者の残酷さを強調するプロパガンダ映画が製作され、国民に先入観を植えつけてきた。この映画ではそんなプロパガンダも意識されている。
新聞社の社主は、共産主義者が憎まれるようにするのが仕事だったと語る。かつてアンワルとともに虐殺を実行したアディという男は、殺した後で共産主義者を悪者に見せるのは簡単なことで、残酷だったのは自分たちだと平然と語る。彼らはダブルスタンダードをわきまえているから、この映画のなかでも変わることがない。しかしアンワルは違う。アメリカ映画にのめり込める彼は、プロパガンダも信じているように見える。だからその文脈に沿って自分を美化する映画を作ろうとする。だが一方で非常に正直な人間でもある彼は、映画のなかの自分が本来の自分と違うことを受け入れる。だから彼だけが変化する。
「それは本当に洞察に満ちた指摘です。山形国際映画祭で上映されたのは、40分長いロング・バージョンですが、そのなかにアディとアンワルが、政府が作ったプロパガンダ映画をどう思っているのか語る場面があります。アディにとってそれは嘘ですが、アンワルは自分の気持ちを楽にしてくれるものだと答えます。彼は、わかっていても違うことができてしまう認知的不協和という心理的な状態にあります。嘘だとわかっていても、信じることができるということです。加害者のなかでも地位の低い実行者たちは、みなそうなのではないかと思います。ただ、アディだけが違います。彼ははっきり嘘だと認めながら、ごく普通に生きています。新聞社の社主や当時の副大統領などは、嘘だとわかっているし、それを認めます。指示をしただけで実際の殺人とは距離があり、おぞましい犯罪のイメージに苦しめられていないからです。
それから、映画作りがアンワルに影響を及ぼす理由についてですが、彼の内面には葛藤があったと思います。一方では、滝を背景にした場面のように自分を美化するイメージを生み出したいと思っていました。しかし、そんなイメージは彼に本当の慰めや救いをもたらしません。あるレベルではそれが嘘だとわかっているのです。だから映画の終盤で滝の場面の映像を観ながら、これはとても美しく素晴らしいけど、(自分が犠牲者を演じている)拷問の場面を見せてくれと言うのです。アンワルの別の部分は、自分の痛みと向き合うことを求めているのです。嘘は本当の救いをもたらさないとわかっているからです」
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◆スタッフ◆ |
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監督 |
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ジョシュア・オッペンハイマー
Joshua Oppenheimer |
共同監督 |
クリスティーヌ・シン、匿名希望
Christine Cynn, Anonymous |
製作総指揮 |
エロール・モリス、ヴェルナー・ヘルツォーク、他
Errol Morris, Werner Herzog, etc |
撮影 |
カルロス・マリアノ・アランゴ=デ・モンティス、ラース・スクリー
Carlos Arango De Mntis, Lars Skree |
編集 |
ニルス・ペー・アンデルセン、ヤーヌス・ビレスコウ・ヤンセン、マリコ・モンペティ、チャーロッテ・ムンク・ベンツン、アリアナ・ファチョ=ヴィラス・メストル
Niels Pagh Andersen, Janus Billeskov Jansen, Mariko Montpetit, Charlotte Munch Bengtsen, Ariadna Fatjo-Vilas Mestre |
音楽 |
エーリン・オイエン・ヴィステル
Elin Oyen Vister |
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◆キャスト◆ |
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アンワル・コンゴ
Anwar Congo |
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ヘルマン・コト
Herman Koto |
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アディ・ズルカドリ
Adi Zulkadry |
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イブラヒム・シニク
Ibrahim Sinik |
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ソアドゥオン・シレガル
Soaduon Siregar |
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スルヨノ
Suryono |
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ヤプト・スルヨスマルノ
Yapto Soerjosomarno |
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ユスフ・カラ
Jusuf Kalla |
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シャムスル・アリフィン
Syamsul Arifin |
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サフィト・パルデデ
Safit Pardede |
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サヒヤン・アスマラ
Sakhyan Asmara |
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(配給:トランスフォーマー) |
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