94年にルワンダで起こった大量虐殺事件を題材にした『ルワンダの涙』には、以前に公開された『ホテル・ルワンダ』と似た設定がある。『ホテル・ルワンダ』では、外資系のホテルが難民キャンプと化し、ホテルの支配人ポールが自分の家族と彼らを何とか守ろうとする。『ルワンダの涙』では、カトリック教会が運営する学校が難民キャンプと化し、神父のクリストファーや英語を教えるイギリス人青年ジョーが彼らを守ろうとする。
しかし、そんな設定から切り開かれる世界は対照的である。『ホテル・ルワンダ』では、異常な状況のなかでも人間性を失うまいとするポールを中心にドラマが展開していくのに対して、『ルワンダの涙』では、人間性を容赦なく奪い去っていく異常な状況が浮き彫りにされる。
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では、その異常な状況とは、どのような状況なのか。フィリップ・ゴーレイヴィッチが大量虐殺の真相に迫る『ジェノサイドの丘』の冒頭には、以下のような記述がある。「750万人の人口のうち、少なくとも80万人がわずか100日のあいだに殺された。ルワンダの死亡率はホロコースト中のユダヤ人のほぼ3倍に達する。これは広島と長崎への原爆投下以降、もっとも効率的な大量虐殺だった 」
ルワンダの大量虐殺とホロコーストには、犠牲者の数字以外にも対比すべき要素があるように思う。ジョージ・リッツアは『マクドナルド化する社会』のなかで、ホロコーストについて以下のように書いている。
「官僚制と同様に、ホロコーストも西欧文明に独自の産物であった。(中略)それは前近代のあまり合理化されていない社会では決して起こりえなかった。実際にそうした社会でたてられた殺人計画は、あまりに未熟であり、またあまりに非効率的であったので、ホロコーストのように数百万人にもおよぶ人たちを組織的に殺害することなどとてもできはしなかった 」
ナチスが使った毒ガスに対して、ルワンダで主に使われたマチューテ(山刀)は、非常に原始的なものに見える。そんな武器で、どうして最も効率的な大量虐殺が可能になったのか。その出発点には、植民地時代に支配者によって植え付けられた人種をめぐる差別意識がある。そして、虐殺が起こるだいぶ前から、ラジオ、新聞、街頭演説などによる洗脳キャンペーンが行われていた。しかし、その他にも無視できない要素がある。
ルワンダの虐殺については、実に多くの本が書かれているが、そのなかでも異色なのが、Villia Jefremovasの『Brickyards to Graveyards』だ。本書の当初の目的は、経済成長を遂げる80年代のルワンダで、レンガや瓦の産業をリサーチすることだった。しかし、その産業がやがて虐殺と結びつくことになる。
産業によって形成された労働者の組織には、地域に深く根ざした政治的、経済的、社会的な関係が埋め込まれ、そうした関係性が、大量虐殺を可能にする要因となったというのだ。本書の副題には「生産から大量虐殺へ」という言葉があるが、それはホロコーストを想起させる。リッツァの前掲書には、以下のような引用がある。「[アウシュヴィッツとは、]近代工場制度のありふれた拡張である。財貨を生産するのではなく、むしろ原材料が人間であり、最終生産物が死なのである」
ヒトラーはユダヤ人を「ウイルス」と呼び、虐殺に加わったフツ族の人々は、ツチ族の人々を「ゴキブリ」と呼んだ。その背後には、図式的な人種差別よりも危険な、人間を人間ではないものに変えるシステムが隠れている。
『ルワンダの涙』で、学校に逃げ込んだ人々は、学校を包囲するフツ族の人々によってゴキブリとして駆除されようとしている。主人公のジョーの正義感や人間性は、そんな現実を前にして脆くも崩れ去る。ツチ族の人々は、マチューテで駆除されるよりも、平和維持部隊に射殺されることを望むが、もちろんそれが叶うはずもない。
実際に国連平和維持部隊の司令官を務めたロメオ・ダレールは、フツ族過激派のリーダーのことを、「人間の姿をした別の生き物」というように表現していた。大量虐殺は、人種の対立ではなく、より深い人間性の喪失から生まれるのだ。
そして、熊切和嘉監督の『フリージア』にも、大量虐殺や人間性の喪失が鍵を握る世界がある。この映画の舞台は、戦時下にあり、治安が悪化しているもうひとつの日本だ。そこには、一定の規則に従って犯罪被害者遺族が加害者に対して復讐できる法律があり、主人公の叶ヒロシは、ある事務所にスカウトされて仇討ち執行代理人となる。彼は、好戦的な人間には見えないが、ダーゲットを見出すと瞬時に行動に移り、まったく表情を変えることなく仇討ちを執行する。