■■公的援助を求める支援者と難しい舵取りを迫られる政府■■
たとえば、脱北者を支援する人権活動家で、スペイン大使館駆け込み事件でも大きな役割を果たしたドイツ人医師ノルベルト・フォラツェンは、受け入れた脱北者を一時的に収容する「ハナウォン」(脱北者を支援し、社会に適応するための教育を行う施設)について、以下のような疑問を提起している。
「またしても私のなかでささやく声がする。この施設に送りこむのは、脱北者たちを世間から遠ざけるため、なによりも西側のメディアから引き離すためではないのか。そして「太陽政策」にとって不都合な発言をしないよう、北朝鮮の現実について証言しないよう、彼らを教育するためではないのか、と」(『北朝鮮を知りすぎた医者 脱北難民支援記』より引用)
フォラツェンは、韓国政府が脱北者に対して十分な公的援助を行えば、脱北者の動きがかつての東ドイツのような大きなうねりになると考えている。しかし、韓国政府は北朝鮮との間で、脱北者問題以外にも、離散家族問題、朝鮮戦争中の行方不明者問題、北朝鮮に拉致されたと見られる拉北者問題、人道的な支援問題、一般的な人権問題など、多岐に渡る問題を抱え、難しい舵取りを迫られている。だから、「太陽政策」を引き継いだ盧武鉉政権は2004年に、脱北者問題をめぐる摩擦に対して以下のような声明を出している。
「韓国政府は脱北者に関しては、人道主義と普遍的価値である人権の立場に拠ってアプローチしている。また、脱北者を保護する意志も確固としている。しかし、(国際NGOの)無理な脱北の誘導と助長は(韓国政府の)基本方針と一致しない」(『北朝鮮と人間の安全保障』所収、崔喜植「韓国政府の人権政策」より引用)
■■二元論に回収されることなく現実を描くための距離と設定■■
『クロッシング』の企画は、そんな摩擦が表面化した時期に動き出したことになる。政府が北朝鮮を刺激しかねない問題に対して消極的な姿勢をとる状況で、脱北者を題材にした映画を撮るための資金を調達し、中国やモンゴルで脱北者がたどったルートを撮影し、モンゴルや韓国の江原道に北朝鮮の村や市場を再現し、リアルな世界を構築するのは、容易なことではなかっただろう。
しかし、もっと重要でもっと困難なのが、脱北者の世界をどう描くかということだ。もし摩擦を生み出している二元論的な図式に取り込まれるような世界を作り上げてしまえば、状況を単純化することに加担する作品になってしまう。
キム監督はそのことを理解し、難しい課題を見事にクリアしている。この映画には、北朝鮮の経済状況、地方の貧しい生活、家族も家もなく彷徨うコッチェビ、命懸けの越境、収容所、不法滞在者を取り締まる中国の公安、駆け込み、企画亡命、苛酷な脱北ルート、韓国における亡命者の生活など、脱北者をめぐる様々な側面に光があてられているが、キム監督は常に一定の距離を保ち、徹底して客観的に描き出している。
その距離は、まず何よりも主人公の設定によるところが大きい。元サッカー選手で、炭鉱で働くヨンスは、妻と息子のジュニと平穏に暮らしている。生活は貧しいが、家庭にはささやかな幸福がある。首領様から賜った古いテレビをきれいに磨くヨンスは、体制に不満を持っているわけではなく、脱北とは無縁の存在といえる。だが、妊娠している妻が栄養失調と結核で倒れたことから、決断を迫られる。妊婦に投与する結核の薬は中国に行かなければ手に入らない。だから彼は越境し、中国で働き、薬を入手しようとする。
■■脱北とは無縁だった家族が目の当たりにする現実■■
これまで脱北を考えたこともないヨンスは、何の情報も持っていない。彼には、党員に賄賂を渡して中朝を行き来する友人がいたが、すでに摘発されている。つまりこの映画では、情報も心の準備もない主人公を通して、彼にとって別世界ともいえる脱北の現実が描き出される。
当然、彼の行く手には予想もしないことが待ち受けている。闇にまぎれて越境するときには、川に浮く死体を目の当たりにして思わず声を上げてしまう。朝鮮族自治区の製材所で仕事にありついた彼は、公安の摘発があることも知らず、安心して荷を解こうとする。実際に摘発を受けたときには、逃げ道がわからず、貯めた金を失ってしまう。
そして、スペイン大使館駆け込み事件をヒントにしたエピソードが、現実との距離をさらに際立たせる。なぜヨンスと駆け込みが結びつくのか。それは仲介者のせいだ。手ぶらで戻るわけにはいかない彼は、インタビューを受ければ金がもらえるという言葉に乗せられ、「企画亡命」に加わってしまう。脱北者たちは、瀋陽にあるドイツ領事館に駆け込み、すぐに記者会見が開かれる。だが、その裏側では、まだ自分の立場に気づいていないヨンスが、いつインタビューが始まり、金がもらえるのかを関係者に尋ねている。
さらに、息子のジュニの視点にも、ヨンスと同じことがいえる。これまで貧しくはあるものの平穏に暮らしてきたジュニは、母親を亡くし、厳しいサバイバルの世界に放り出される。そして、彷徨うコッチェビのなかに、幼なじみで、摘発された父親の友人の娘だったミソンを見出す。
そんなジュニにとって脱北は、恐ろしいだけではなく、理解しがたい奇妙な体験にもなる。父親を探すために越境を試み、警備兵に発見されて収容所に送られた彼は、韓国で暮らす父親が仲介者に送った金の力で解放され、今度は隠れることもなく国境を越えるのだ。
■■キリスト教の世界と脱北者の運命のコントラスト■■
この主人公の親子と彼らを取り巻く世界の間には深い溝がある。親子は、自由や経済的な豊かさではなく、家族が一緒に暮らすことだけを望んでいる。だから彼らは、駆け込みや脱北ルートをたどる旅のなかで、取り押さえられそうになった母子や子供を亡くして精神を病んだ女性に救いの手をさしのべる。だが、そんな親子は、政治的な力がせめぎあう世界のなかで、個人ではなく、脱北者という記号として扱われることになる。
溝を生み出すのは政治的な力だけではない。先述したドイツ人医師フォラツェンは、「もう何年もわが身を犠牲にして北朝鮮の人々を支援しているのは、たいてい韓国のキリスト教の宣教師たちだ」と書いている。この映画でも、脱北者とキリスト教の関係が、独自の視点から描き出されている。
摘発されたヨンスの友人は、中朝を往復する間に韓国の宣教師と接触し、密かに聖書も持ち込んでいた。ジュニは、ミソンがその父親から聞いた話に関心を持ち、人が死んだ後にあるという次の世界がささやかな心の支えとなる。そんなエピソードが映画のエンディングを印象深いものにする。モノトーンの映像のなかに、北朝鮮の川辺で映画の登場人物たちが楽しげに過ごす光景が浮かび上がる。それは幸福な記憶であると同時に、天国の光景にも見えるのだ。
一方、ヨンスは、宣教師と接触した友人から、それが何なのかを知らないまま聖書を受け取る。謎の書物を開いた彼は、意味もわからずに「アブラハム」と「イサク」という名前を口にする。ヨンスとジュニの運命は、アブラハムとイサクと重ねることができるが、この親子の前には最後まで神が現れることはない。こうした宗教に関わる象徴的な表現にも、距離を置いて現実をとらえようとする姿勢を垣間見ることができる。
キム監督は、状況を単純化してしまうようなフィルターをすべて取り除き、ある家族の物語を通して脱北者をめぐる多様で複雑な現実を鮮やかに浮き彫りにしているのだ。 |