ユッスーは、チュニジア出身でヨーロッパで活動してきた盲目のピアニスト、モンセフ・ジェヌを音楽のガイドとして、アトランタ、ニューオーリンズ、ニューヨーク、ルクセンブルクなどを巡り、最後にゴレ島へと戻っていく。そんな旅のなかでは、アトランタのゴスペル・シンガー、W・マイケル・ターナーJr.、ニューオーリンズのドラマー、アイドリス・ムハンマド、ニューヨークのベーシスト、ジェームズ・カマックなどと、セッションや対話が繰り広げられる。
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その様々な出会いのなかに、筆者が特に注目したい関係がある。アトランタ、ニューオーリンズに続くニューヨークで、ユッスーと仲間のミュージシャンたちがリハーサルをしているスタジオにアミリ・バラカ(リロイ・ジョーンズ)が現れ、詩を朗読する。それから今度はユッスーがアミリの自宅を訪問し、奴隷貿易や黒人音楽について語り合う。
そんな光景を観ながら、筆者はユッスーとスパイク・リーとアミリ・バラカの繋がりについて考えていた。
かなり昔のことになるが、1991年にユッスーは、“偉大なアフリカン・アメリカン・ミュージックの遺産を拡大する”というスパイクの主張に共鳴し、彼が設立した新レーベルと契約し、92年にアルバム『アイズ・オープン』を発表した。同じ91年、そのスパイクは、マルコムXの生涯を映画化する企画をめぐって、アミリ・バラカと彼が率いる「マルコムXの遺産を守る統一戦線」から激しい攻撃を受けていた。アミリは、“中流のニグロの自己満足のためにマルコムを犠牲にすることを許すわけにはいかない”という表現で怒りをぶつけた。
当時は、社会進出を果たして中流化した黒人とゲットーに取り残された下層の黒人の二極分化が問題になっていた。スパイクは中流の出身だった。そして、伝記『マルコムX』の前書きには、「マルコムの主張は、抑圧された黒人の下層大衆にアピールする一方、黒人の中流は彼のことを激しく嫌悪し、恐れた 」とある。
では、そんな状況や批判に対して、スパイクはどう対処し、どんな映画を作ればよかったのだろうか。同じように中流の出身で、人種と階層のはざまでジレンマに陥った作家のシェルビー・スティールは、その著書『黒い憂鬱』のなかで、90年代の黒人の在り方を以下のように提示している。
「六〇年代に被害者的アイデンティティが黒人の必需品になった理由は、集団的行動を強調する必要があったからである。だが、人種的向上が個人的向上の程度によって決定されるようになった九〇年代以降、被害者的アイデンティティは我々を停滞させているにすぎない。結局は、勤労、教育、個人の行動力、安定した家庭生活、私有財産の所有を手段にして、アメリカ社会における地位向上を果たしてきたのが少数民族の流儀である。過去であれ現在であれ、被害者になったという事実があるにしても、この社会的向上の「鉄則」は黒人にも当てはまる。そして、向上のための近道はない。現在、我々黒人が必要としているもの。それは、黒人の可能性と責任を同時に教え、個人として生きる力を与える人種的アイデンティティなのである 」
スパイクもそんな時代の変化を踏まえた90年代にふさわしいマルコムX像を作り上げるべきだった。しかし、監督であると同時に黒人のスポークスマンという立場にも縛られた彼は、映画『マルコムX』にロドニー・キング事件を引用し、黒人=被害者という人種的アイデンティティによって求心力と結束を生み出そうとするような世界を構築してしまった。
それから長い年月が流れ、ユッスーとアミリが親交を結ぶことになった。アミリはユッスーに、自分の名前はマルコムXからもらったものだと語る。グリオ(語り部)の血を継承するユッスーと黒人の歴史の語り部ともいえるアミリは、確かに強い絆で結ばれているように見える。
それでは、いま書いてきたような問題は、乗り越えられたのだろうか。おそらくまだ明確な答えは出されていない。この映画はドキュメンタリーではあるが、ピエール・イヴ・ボルジョーとエマニュエル・ジェタが脚本にクレジットされているように、方向性があらかじめ決められている。その方向性にこの問題は含まれてはいない。問題が意識されていたとしたら、旅の様相も違ったものになっていたかもしれない。