映画『ゲット・オン・ザ・バス』は、監督スパイク・リーのフィルモグラフィーのなかで特別な節目になると同時に、今後の彼の方向性に関して重要な意味を持つ作品になるのではないかと思う。スパイクは言うまでもなく優れた才能を持った監督であるが、
これまで映画を作るスタンスについて大きな課題を背負いつづけてきた。
彼は監督として評価されるばかりではなく、その過激で挑発的な言動から黒人を代表するスポークスマンとして注目されてきた。ところが、次第にスポークスマンとしての立場が彼の映画監督としての資質を縛るようになり、
一時期の彼の映画は明らかに精彩を欠いていた。この『ゲット・オン・ザ・バス』は、スパイクがそんな課題にひとつの決着をつける映画であるように見えるのだ。
というのもこの映画では、もうひとりの黒人のスポークスマンといえる人物の存在がきわめて自然なかたちでドラマに反映され、この人物との対照によってスパイクのスタンスが明確にされることになるからだ。その人物とは、
かつてマルコムXもその指導者のひとりだったネイション・オブ・イスラムの現指導者で、"ミリオン・マン・マーチ" を呼びかけたルイス・ファラカンである。
そこで、この映画におけるスパイクのスタンスをより明確にするためには、ファラカンとスパイクがそれぞれにミリオン・マン・マーチとこの映画に至る軌跡を振り返っておく必要がある。このふたりが、黒人のスポークスマンとしてどのような立場をとり、
アメリカ社会の変化のなかでどのように目の前のハードルを飛び越えてきたのかを比較してみることは、この映画を観るうえでとても参考になるはずである。
スパイクとファラカンは80年代の特に後半にかけて注目を浴びる。ファラカンはそれ以前からネイション・オブ・イスラムを率いていたが、80年代後半から90年代にかけてこれまで以上に注目される存在となる。スパイクは80年代半ばから次々と作品を発表し、新しい黒人映画を先導していく。
その背景にはレーガン政権の極端な保守化政策がある。黒人やその他のマイノリティの人々は、保守化のなかでこれまでの公民権運動の成果が後退を余儀なくされることに危機感をつのらせた。そこで黒人社会はそんな状況を打開するためのスポークスマンを求め、ファラカンやスパイクがそれに応える存在になったのだ。
しかしながらそこには問題があった。黒人社会は一枚岩ではなく、たとえば、公民権運動の恩恵を受けて中流化した人々と都市のスラムに取り残された下層の人々など階層の分化が進んでいた。この階層の分化は、ファラカンとスパイクそれぞれの立場の変化にもはっきりと現われている。
ファラカン率いるネイション・オブ・イスラムは、アラーの予言者と称するエライジャ・ムハマッドによって32年にデトロイトに創設された。白人の悪魔に対して黒人の自警を目指すというムハマッドの主張は、都市の貧しい黒人のあいだに確実に広がっていった。
そして後にマルコムXがニューヨーク地区の指導者として頭角を現すことになる。というように、この組織は伝統的に都市の労働者を支持基盤としていた。ところが80年代にファラカンは方向転換をはかる。
この方向転換については89年8月に出た「ヴィレッジ・ヴォイス」に詳しい記事が掲載された。その記事によれば、労働者層の支持基盤では勢力の拡張が望めないと考えたファラカンは、それまで力をのばしてきた黒人の中流層がレーガン政権下で再び疎外される立場に追いやられていることに目を向け、黒人による経済的な自立を訴え、中流の支持を拡大していった。
これは意外な展開でもあった。これまでファラカンは、ヒトラーを賞賛したり、聖書とコーランから独自の解釈を作りあげてユダヤ教を汚れた宗教と公言してはばからないなどしばしばマスコミを賑わす人物だったからだ。しかも黒人を中心とした大学に引っ張りだことなったファラカンだったが、彼の講演は教義とアジテーションに終始し、
黒人の未来に対する具体的な展望は皆無だったという。
それでも彼が支持された理由については、警察が手をこまねくドラッグ問題にネイション・オブ・イスラムのメンバーが積極的に取り組むこと、レーガン政権下の人種差別の広がり、そしてファラカン自身のパフォーマーとしての魅力などが上げられていた。
つまり、彼に対する支持については社会の保守化という要因が大きく作用し、実質的にはかなり漠然としたものなのである。
一方スパイクの場合には、筆者には『ドゥ・ザ・ライト・シング』の時点で非常に気になっていたことがあった。映画以外の場では、当たり前に過激な言動でメディアを挑発し、スポークスマンとしてのパフォーマンスを繰り返すにもかかわらず、映画になると極めて客観的で冷静な視点が際立つということだ。
この映画は、致命的な事件を引き起こすような差別意識を持った人物がひとりも登場しないにもかかわらず、猛暑のなかでそれぞれが正しいと信じることが少しばかり増幅すると、致命的な事件が起こることを鮮やかに描き、人々に覚醒をうながす。この冷静な視点は、映画以外の場の過激な発言とは全然違う。 |