ピザ屋の向かいでスーパーを繁盛させているのは、ボートピープルから身を起こした若い韓国人夫婦。ピザ屋のはす向かいでは、街の賢人気取りの3人組が、ビーチパラソルの下で一日中なにもせず、ただマイク・タイソンや向かいの韓国人の悪口を言って過ごしている。
映画はまさにそんなスケッチで進んでいく。それでは何も起きないのかといえば、決してそうではない。コミカルに見えるスケッチが、あれよあれよという間に、警官による黒人殺害と、黒人たちによるピザ屋襲撃という大惨事にエスカレートしていくのである。
この映画のなかには、黒人街を猿の惑星と呼ぶような人間はいても、誰ひとりとして大惨事を引き起こせるような差別意識とパワーを持った人間はいない。ところが、猛暑が、
街のなかでそれぞれにライト・シング(正しい事)をやっていると信じている住人たちの、そのライト・シングを少しずつ増幅していく。
バギン・アウトは、ピザ屋の壁に黒人の写真がないことに腹を立て、ピザ屋のサルはラジオ・ラヒームのラジカセの大音響に怒る。イタリア人のピノが黒人の悪口を連発すれば、ムーキーがそれに応戦し、別の黒人は韓国人の悪口を言い、白人の警官は、
狭い部屋に大勢で暮らしているプエルトリコ人を悪く言い、韓国人は儲けまくるユダヤ人の悪口を言う。ここらへんはほとんどラップののりである。そして、致命的な差別が存在しないにもかかわらず、そこからは、結果だけを見れば非常に単純で図式的な人種差別という認識で語られてしまうような事件が起こってしまうのだ。
また、そんな展開に音楽が絶妙のフォローを見せる。特に、映画のオープニングを飾り、劇中でもラジオ・ラヒームのラジカセから流れつづけるパブリック・エネミーの<ファイト・ザ・パワー>は、どうしたって印象に残る。見逃せないのは、スパイクがこの曲を最後に流すのが、 燃えるピザ屋の場面だということだ。地道な商売をしているピザ屋を燃やすことが、パブリック・エネミーのこの曲のメッセージに対する”ライト・シング”ではないことはいうまでもない。
近作におけるスパイクのメッセージは、『スクール・デイズ』のラストや映画の冒頭のラヴ・ダディのDJを聴けばわかるように、"Wake Up"である。この新作でも、至るところにそんな覚醒をうながすための伏線が盛り込まれている。
たとえば、映画の中盤には、ラジオ・ラヒームが、路上でサルサを流しているプエルトリコ人のグループとにらみ合い、自分のラジカセのパワーに物を言わせてサルサを蹴散らす場面がある。これはその時にはけっこう可笑しい場面だが、パブリック・エネミーのラップの皮肉な使い方を経たあとでは、苦々しいものに変わる。
また、この映画には、『スクール・デイズ』のラストのように、あからさまな「Wake Up」という台詞こそないが、暴動の翌朝、静けさを取り戻した街の背景に流れる音楽には注目しておくべきだろう。これは映画の冒頭のラップとは対照的に、ブランフォード・マルサリスのサックスをフィーチャーし、
ホーン・セクションとストリングスが絶妙に溶け合うナンバーになっている。この映画のサントラを持っている人ならおわかりのように、この曲には<Wake Up Finale>というタイトルがついているのである。
こうしてスパイクは、”ライト・シング”とか”ファイト・ザ・パワー”といったキーワードを宙吊りにし、覚醒をうながしてしまうのだ。しかも彼は、映画の最後の最後に、暴力を否定するキング牧師と防衛のための暴力を否定しないマルコムXのメッセージを引用してみせる。 その解釈は様々だろうが、筆者には、スパイクがそうした両極の意見を云々する前に、もっと身近なところにやるべきライト・シングがあるではないかという静かなメッセージを発しているように思えてならないのである。 |