アメリカで黒人監督による映画がこれまでにない盛り上がりを見せていることは、いまさら繰り返すまでもないだろう。スパイク・リーの『ジャングル・フィーバー』とジョン・シングルトンの『ボーイズン・ザ・フッド』は、
そうした動きを背景に、今年(1991年)のカンヌ映画祭で注目を浴びた作品である。
スパイク・リーといえば、『モ・ベター・ブルース』では、ユダヤ人のジャズ・クラブ経営者の表現をめぐって、ナット・ヘントフらに叩かれ、『ジャングル・フィーバー』も、アメリカでの評判が芳しくなく、
さらに今度はマルコムXの生涯の映画化をめぐって、アミリ・バラカや彼が率いる「マルコムXの遺産を守る統一戦線」に噛みつかれ、果てはアポロ劇場で映画化に抗議する集会が開かれるなど、『ドゥ・ザ・ライト・シング』以降、何かと揉め事が多く、旗色もあまりよくない。
新作の『ジャングル・フィーバー』は、確かに欠点も目立つが、少なくとも筆者は楽しむことができた。これは『ドゥ・ザ・ライト・シング』が公開されたときにも書いたことだが、スパイク・リーという監督は、
映画の外に出てしまうと、当たり前に過激な発言が目立つために、毎度黒人のコミュニティのスポークスマンになってしまうが、実際の映画となると、そうした価値観とは距離を置いて作品を作る。このギャップが、
当たり前の過激さと黒人側から見た価値観に基づく作品を期待する人々の誤解を招いているのではないかと思う。
『ジャングル・フィーバー』では、アフリカ系とイタリア系アメリカ人という異なる人種の男女の恋愛と、それに対して彼らの家族や周囲の人間がどのような反応を示すかが描かれているが、ふたりの主人公の設定がなかなか興味深い。
一方は妻子とともに中流の上ともいえる豊かな暮らしを送る有能な黒人建築家で、他方は労働者階級のイタリア系家庭の娘だ。ふたりは建築家と秘書という立場から関係を持つにいたるのだが、スパイクは、人種、階級、
生活環境といった要素を織り交ぜながら、彼らの恋愛の純度を巧みに計測していく。
建築家の心のどこかには、白人女性に対する密かな羨望があるし、一方、ベンソンハーストにくすぶっている親兄弟やはっきりしないボーイフレンドに囲まれている娘にとって、白人の会社で唯一の黒人として辣腕をふるう建築家には魅力がある。そんな外的な要素がどこかでふたりの関係を微妙に歪めているのだ。
しかも周囲の人々は、そうした羨望や魅力に反比例するように反発を強めていく。
冒頭でこの映画に対する悪評云々と書いたが、確かにこの作品から欠点を見つけ出すことは難しいことではない。
たとえばこの作品では、スパイクがドラッグ問題を大きくクローズアップしている。建築家の兄はヤク中で、主人公たちの恋愛と並行するように、彼は更正することなく悲惨な運命をたどっていく。『ドゥ・ザ・ライト・シング』の公開時、スパイクは、
どうしてドラッグの問題を取り上げないのかという質問に対し、映画の主題に関係ないと自信を持って答えていたが、この『ジャングル・フィーバー』では、果たして異なる人種のあいだの恋愛に、その問題が関係しているのだろうか。どうも筆者には、彼が無理してドラッグ問題を取り上げているように思えてならない。
映画のラストで建築家が、ヤク中の娘を抱きかかえてノー≠ニ叫ぶシーンは印象的ではあるが、それは同時に、映画の主題を曖昧にするための叫びにもなっている。
またこの映画では、ヤク中の兄、あるいは、建築家の狂信的な父親や優しい母親、主人公の男女と彼らの友人など、みなあまりにも図式化されすぎている。建築家の両親に扮するオジー・デイヴィスとルビー・ディーは、
『ドゥ・ザ・ライト・シング』のダ・メイヤーとマザー・シスター役のときの方が遥かにリアルな存在感を放っていることは、誰の目にも明らかである。しかもそんな調子で、やはり人種の壁は厚かったというような結末が準備されているとなれば、不満も当然といえば当然である。
しかしそんな欠点を踏まえても、この映画が面白く観られるのは、これらの欠点を逆説的に証明するような影の主人公の存在によるところが大きい。それは、建築家に走った娘に捨てられるイタリア系のボーイフレンドと、彼が働くドラッグストアの常連で、ベンソンハーストに暮らす黒人女性である。
このふたりは、映画のなかで傍観者のように寡黙だが、表の主人公たちとは対照的に、自分たちの置かれた状況を踏みしめるかのように、ゆっくりと歩み寄っていく。
そして最後に、ジョン・タトゥーロ扮するイタリア系の若者は、差別に凝り固まった父親を振り切り、イタリア系の隣人たちの暴力による妨害を乗り越え、
黒人女性の家にたどり着く。この映画の欠点を、内気なイタリア系の若者が、彼女の家にたどり着くまでのドラマを描くための捨石とみるならば、『ジャングル・フィーバー』は感動的な映画ですらある。
ところで、マルコムXを映画化しようとするスパイクに対して、反対派のバラカは、中流のニグロの自己満足のためにマルコムを犠牲にすることを許すわけにはいかない≠ニいうような表現で抗議している、この中流≠ニいう言葉には根深い背景がある。
アメリカでは、公民権法の成立以来、教育や職場などで黒人を優遇する措置や政策がとられ、その結果、社会進出を果たした黒人たちは中流化し、危険な都市のゲットーから郊外に流出する。一方、そうした政策の恩恵に与ることができなかった下層の人々はゲットーに残され、二極分化が進行した。
そしてレーガン政権以降の保守化政策は、富める者と貧しい者の格差をさらに大きく広げている。 |