しかしその間も、引き裂かれた家族が黙っていたわけではない。たとえば、ベトナム帰還兵マイケル・シャドの場合だ。彼はメコンデルタでベトナム人の娘タイに出会った。マイケルのヘリコプター・チームで通訳として働いていた彼女の父親が、この21歳の兵士を家族の夕食の席に招いたのがきっかけだった。ふたりは恋に落ち、その後アメリカに帰還したマイケルは、彼女に求婚するために、兵士として再びベトナムに舞い戻る。彼らは70年に仏前で式を挙げ、アメリカ大使館から結婚証明書が交付されるのを待つ間に、息子のランスが誕生する。だが、ベトナム政府が赤ん坊の出国を認めなかったため、夫婦はひとまず息子を祖父母に預けて、ベトナムを離れるしかなかった。
帰国したマイケルは、息子を呼び寄せるためにあらゆる手を尽くすが、効果はなかった。そのうちに南ベトナム政府は崩壊し、妻のタイは子宮を摘出することになり、マイケルは遅延ストレス症候群と診断される。その後、80年にタイの父親から手紙が届き、息子が生きていることが明らかになるが、アメリカ政府は動こうとしない。だが、この悲劇に関心を持ったテレビのリポーターが、84年にベトナムを訪れ、父親は映像で13年ぶりに息子の姿を目にする。煩雑な書類のやりとりや面接を経て、この息子にアメリカに渡る許可が下りたのは、その翌年のことだった。
さらに、個人ではなく、グループによる活動も活発化する。ベトナムでは78年に、“ロージー”を名乗るアメラジアンの母親が、外国人のジャーナリストたちに、アメリカは自分の子どもたちを帰国させるべきだと訴えるようになる。その翌年の79年、アメリカでODPの原案が作られたが、アメラジアンはその対象に含まれていなかった。アメリカとベトナムの間で、アメラジアンはベトナム人という合意が成立していたからだ。これに対して、ロージーと他のアメラジアンの母親たちは、大量の請願書をバンコクにあるアメリカのODP事務局に送りつけた。彼女たちが訴えるアメラジアンの実情は、事務局を通じてワシントンの上層部に伝えられたが、それでも政府の姿勢は変わらなかった。
一方、アメリカで動き出したグループのなかで、ここで注目したいのが、ベトナム帰還兵の法律家ブルース・バーンズが始めた“アメラジアン・レジストリー”だ。これは、自分たちの子どもをベトナムから救い出そうとする帰還兵の父親たちのグループで、彼らのなかでも特によく知られることになったのが、カリフォルニアに住むバリー・ハントゥーンだ。ある日、85年8月号の「ライフ」誌を手にした彼は、バンタウのビーチでピーナッツを売って生活するマイというアメラジアンの少女の写真に見入り、横にいる妻に向かって「私の娘だ」と語った。彼はそれから二年間、少女とその母親のニュンをベトナムから救い出すために骨を折る。72年に兵役を終えた彼は、妊娠9ヶ月のニュンを残して帰国しなければならなかった。そして、ブルース・バーンズの尽力とマスコミの後押しによって、87年にマイはカリフォルニアに到着する。
だが、話はそれで終わらない。マイに同行し、彼女の母親だと主張する女性は、ベトナムでハントゥーンが妊娠させた女性ではなかった。それは、マイが彼の娘ではないことを意味する。彼は、血液検査を受けて疑問を解消すると約束したが、それを実行せず、かわりに神経衰弱に陥ってしまった。元ODPの面接官によれば、帰還兵のなかには、自分の娘ではないアメラジアンの少女を引き取ろうとする人間がいるという。そんな行動には、娘を捨てた罪悪感が作用している。
そして最後に、アメラジアンのキエン・グエンがその苛酷な体験を綴った『憎しみの子ども』を取り上げたい。キエンは、67年にニャチャンの裕福な家庭に生まれた。彼が5歳の頃、一家が暮らす大邸宅では華やかなパーティが開かれていた。キエンは、民間のアメリカ人のエンジニアと彼の通訳として働いていた母親フオンの間に生まれた。その後、彼女は、別のアメリカ人将校と結婚し、弟のジミーが生まれた。一家が裕福なのは、ふたりのアメリカ人が帰国するときに、多額の金を残していったからだ。
しかし、サイゴン陥落によってすべてが変わる。一家はその直前に、アメリカ人の友人の協力を得て、アメリカ大使館から脱出を試みるが、頼みのヘリコプターは爆発炎上してしまう。共産主義体制のもとで、彼らの屋敷と財産は没収され、母親は娼婦のレッテルを貼られる。アメラジアンの子どもがいる一家は貧困にあえぎ、町の指導者となったかつての屋敷の庭師や親戚である伯母の一家から、冷酷な仕打ちを受ける。キエンは、母親の同棲相手だった男ラムから性的虐待を受ける。そんな彼は、家族から離れ、船による脱出の機会に飛びつく。だが、計画は失敗に終わり、ボート難民のキャンプに収容され、気も狂わんばかりの体験を強いられる。
見逃せないのは、この本が出版されたのが、遠い昔のことではなく、2001年であることだ。いち早くODPの恩恵に与り、アメリカに渡ったキエンは、それから14年後の1998年にニューヨーク大学歯学部を卒業する。だが、歯科医師免許が下りるのを待つうちに、勉学に追われている間は厳しくはねつけてきた悪夢が甦ってくる。彼はその苦しみや恐怖から自由になるために、悪夢の日記をつけだし、それがこの本の出発点になる。「ところが、書き進むにつれ、これまで出会ったアメラジアンたちのことが頭を離れなくなった。(中略)ざっと5万人以上のアメラジアンの子どもたちが、私と同じ、あるいはもっと劣悪な運命をたどっているのだ」
確かにこの本では、アメラジアンの子どもたちの記述が印象に残る。市場では、淡い金髪のふたりの少年が、ゴミを漁っている。そのひとりは、片目を失っている。黒人の血を引く姉妹は、“焦げた飯”と呼ばれ、アメラジアンのなかでも特に酷い差別に晒されている。そして、ODPの面接官と会ったキエンが家に戻ってくると、そこには噂を聞きつけたアメラジアンの子どもたちが集まっている。彼は、見捨てられた子どもたちの数の多さにショックを受ける。そんな彼らの現在を想像してみると、戦争は決してまだ終わっていないのだと思えてくる。 |