KIZU―傷― / ギリアン・フリン
Sharp Objects / Gillian Flynn (2006)


2007年/北野寿美枝訳/早川書房
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(初出:)

 

 

閉鎖的な田舎町、歴史に潜む南部の影
そして肌に刻まれた過去の呪縛

 

 ギリアン・フリンはミズーリ州カンザスシティ出身の女性作家。英国推理作家協会賞の最優秀新人賞と最優秀スパイ・冒険・スリラー賞をダブル受賞した処女長編『KIZU―傷―』のヒロインは、シカゴの新聞社《デイリー・ポスト》の事件記者カミル・プリーカーだ。物語は彼女が、編集長のフランク・カリーから、ミズーリ州の最南端、ブーツのかかとの位置にあたる田舎町ウィンド・ギャップで起こっている事件の取材を命じられるところから始まる。

 そのウィンド・ギャップでは、十歳の少女ナタリー・キーンが行方不明になっている。カリーがこの事件に関心を持ったのは、同じ町で一年前にも九歳の少女アン・ナッシュが殺害される事件が起こっていたからだ。そこで、ウィンド・ギャップ出身のカミルに白羽の矢がたった。

 だが、カミルの心は重い。代々富を受け継いできた家に生まれた彼女には、母親アドラとの確執や妹マリアンの死という辛い記憶があった。そして、戸惑いながらも帰郷した彼女が取材を進めるうちに、ふたつの事件が関連性が浮かび上がるだけではなく、その真相は彼女の過去とも結びついていく。

 この小説の中盤に、記事を送ったカミルと編集長カリーの間にこんなやりとりがある。

「この記事を印刷にまわす前、全員にミドルネームのイニシャルをつけていることでカリーがわたしをからかった。“やれやれ、南部人は形式とやらが大好きなんだな”。ミズーリは厳密に言うと中西部だと指摘すると、カリーは鼻で笑った」

 ウィンド・ギャップは架空の町だが、物語では歴史における南部との繋がりや影響が独特の雰囲気を醸し出している。たとえば、カミルの実家の邸宅が以下のように表現される。

「母が住んでいるのは――かつてわたしも住んでいたのは――ヴィクトリア様式の手の込んだ邸宅で、屋上には露台、建物を一周するベランダ、裏に張り出したサマーポーチ、屋根から矢印のように突き出た頂塔がある。こぢんまりした部屋や小部屋が無数にあり、どの部屋へ行くにもなぜか遠まわりになる。ヴィクトリア朝の人びと、とりわけ南部に住んだヴィクトリア朝の人びとは、結核や流感にかかるのを避けたり、性の誘惑をかわしたり、わずらわしい感情を遮断したりするべく、たがいに距離を置くためにたくさんの部屋を必要とした」

 また、ミズーリ州は19世紀半ばにアイルランドとドイツの移民が急増したが、この物語では町の信仰について以下のように綴られている。

「ウィンド・ギャップは、南部バプテスト教会の信徒が急増しつつある地域で唯一、カトリックの信仰を守っている。この小さな町の礎を築いたのはアイルランド移民団だった。ジャガイモ飢饉を逃れてニューヨークに着いたマクマホンやマローンたちは酷使され、(頭がある者は)西をめざした。セントルイスはすでにフランス移民が支配的だったので、アイルランド移民は南へ下って、自分たちの町を築いた。しかしその後、南北戦争後の再建期にあっさり追い出される。つねに州内で意見が分裂していたミズーリが南部の州としてのルーツを捨て去り、正式な自由州として生まれ変わろうとした際に、厄介なアイルランド移民たちは、ほかの望ましくない人びととともに追い出されたのだ。彼らは信仰を残していった」

 こうした南部に関わる描写は、ある意味では、時の流れに埋もれて隠れているもの、見えなくなっているものを暗示しているともいえる。

 そして、さらに印象に残るのが、現実に対する認識を掘り下げる独特の視点だ。カミルが子供の頃に感じていたことと現実の間にはズレがある。彼女が平穏な人生を歩んできたのであれば、大人になってからそれに気づき、修正することは難しいことではないかもしれない。しかし、彼女の場合には想像を絶するような困難をともなう。なぜなら彼女は、子供の頃に感じたことを皮膚に刻み込んできたからだ。


 
 
◆おもな登場人物◆
 
カミル・プリーカー   《シカゴ・デイリー・ポスト》紙記者
アドラ・クレリン カミルの母
マリアン カミルの妹
アマ カミルの異父妹
アラン カミルの義父
フランク・カリー カミルの上司
アイリーン フランクの妻
アン・ナッシュ 死亡した少女
ナタリー・キーン 死亡した少女
ジョン ナタリーの兄
ジェイムズ・キャピシ 事件を目撃した少年
ビル・ヴィッカリー ウィンド・ギャップ警察署署長
リチャード・ウィリス カンザスシティの刑事

 
 

「そう、わたしは自傷行為者だ。カッターナイフだけではなく、はさみやナイフ、包丁も使うし、尖ったものを突き刺したりもする。特殊な症例だ。それには訳がある。そう、わたしの皮膚は声をあげるのだ。皮膚のいたるところに単語が彫ってある――」

「カッティングを始めてから十六年後、自分の体に彫りつけた最後の語は“vanish(消えろ)”だった。(中略)その語を刻んだあと自分で病院へ行き、十二週間、入院した。リストカッターを扱う専門病院だ。ほぼ全員が女性、大半が二十五歳未満だった。入院時、わたしは三十歳になって半年が過ぎていた。微妙な時期だった」

 カミルは肌に刻まれた過去に呪縛されている。それが彼女の日常にも浸透していることは、導入部のこんな描写から察せられる。

「わたしはいつも風呂に入る。シャワーは使わない。だれかがスイッチを入れたように皮膚がざわめきだすので、しぶきが苦手なのだ。それで、モーテルの薄っぺらいタオルを丸めてシャワー室の排水溝をふさぎ、シャワーノズルを壁に向けて、三インチほどの高さまでたまった湯のなかに座った」

 カミルが記者として事件の真相にたどり着くためには、過去の呪縛という壁を乗り越えなければならない。この小説では、そんな鋭い痛みと過去の重さが細やかに描き出されている。

《引用文献》
『KIZU―傷―』 ギリアン・フリン●
北野寿美枝訳(早川書房、2007年)

(upload:2013/11/30)
 
 
《関連リンク》
ジル・パケ=ブランネール 『ダーク・プレイセズ(原題)』 レビュー ■
ギリアン・フリン 『ゴーン・ガール』 レビュー ■
デヴィッド・フィンチャー 『ゴーン・ガール』 レビュー ■
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