デヴィッド・フィンチャー・インタビュー
Interview with David Fincher


1997年 東京
line
(初出:「キネマ旬報」1998年2月下旬号、若干の加筆)

 

 

内面の葛藤と現代における救い

 

 デイヴィッド・フィンチャーは、MTVやCMの世界から劇映画に進出してくる映像派といわれるような監督たちのなかでもかなり異彩を放っている。監督デビュー作の『エイリアン3』では、 ヒロインの肉体にエイリアンの幼生を埋め込むことによって、ヒロインとエイリアンとの壮絶な死闘というシリーズの図式を大胆に塗り替え、内面の葛藤と犠牲の物語を作り上げた。

 続く『セブン』にも、 まったく異なる設定であるにもかかわらず、これに共通する展開が盛り込まれている。七つの大罪を模した殺人を繰り返す凶悪犯を追いつめるかに見えた刑事は、周到に仕組まれた罠におちているだけではなく、 その内面に憤怒の大罪という敵を埋め込まれ、凄まじい葛藤を強いられることになるからだ。

 フィンチャーのユニークなところは、単にドラマを斬新な映像感覚で表現するだけではなく、主人公の内面に迫り、そこに蠢く衝動や葛藤をも映像化しようとする野心にある。 それゆえに彼の映画では、意外な展開から宗教的なイメージが広がっていくことになる。

 それは注目の新作『ゲーム』もまた例外ではないが、基本的な設定がより日常的、現実的であるだけに、彼の独自の世界がいっそう際立つ作品になっている。 あらゆるものを手に入れ孤独な生活を送る富豪ニコラス(マイケル・ダグラス)は、軽い気持ちで謎めいた"ゲーム"に参加したことから、自分の世界が完全に崩壊する悪夢のシナリオに引き込まれていく。 もちろんゲームは彼の外側の世界で進行していくが、それがエスカレートするに従って内面のトラウマが表面化し、葛藤を迫られ、追いつめられていくことになるのだ。

「確かに『エイリアン3』の魅力は内面の葛藤にある。このシリーズの第一弾には、癌のメタファーを思わせるところがあって、そういう意味では『エイリアン3』はAIDSのメタファーになっている。 『セブン』にはそれほど内面の葛藤という要素はないと思う。これは刑事ものに見えて、その本質は『エクソシスト』のようなホラー映画なんだ。だから、刑事もののドラマでは割り切ることのできない恐怖がある種のカタルシスを導く。 『ゲーム』はまさしく内面の葛藤のドラマだ。混乱し葛藤するマイケル・ダグラスとともに観客ひとりひとりが、ゲームと現実、あるいは映画のルールをどうとらえるのかというところがポイントになっている」

 これまでの作品でフィンチャー自身は脚本を手がけていないが、それでも異なる設定のなかで内面のドラマと宗教的なイメージが密接に結びついていくのは、彼が作品を厳選し、脚本に細かな手直しを加え、 自分の世界を構築するからに他ならない。実際、彼は『ゲーム』で脚本家にたくさんの指示を出し、さらに『セブン』の脚本家アンドリュー・ケビン・ウォーカーにも加筆の協力を求めている。 この手直しの作業からはフィンチャーのスタイルといえるものが見えてくる。

「ぼくの仕事は、物語を映像言語に翻訳することで、『ゲーム』の物語は格好の素材だった。スケールが大きすぎて舞台では不可能だし、小説ではあまりに複雑すぎて読者が飽きてしまう。とても視覚的な物語なんだ。 『ゲーム』の脚本にはたくさんの手直しをしているけどいちばん変えたかったのは、物語のトーンだ。最初の脚本はあまりに雄弁で説明が多かった。主人公は、まるでCNNのテッド・ターナーみたいに人生を謳歌している遊び人で、 そんな人間が自殺まで追いつめられるというのは無理があると思った。ウォーカーを呼んだのも説明的な台詞を削るためだ。ぼくは物語の背景となる事実はできるだけ伏せたままにして、観客が推測するように映像だけで語るような表現をしたいんだ」


◆プロフィール
デイヴィッド・フィンチャー
コロラド州で生まれ、北カリフォルニアで育った。その後、家族とともにオレゴン州アッシュランドに移住。スーパー8で映画を撮っていた高校時代を経て、 幼いころ住んでいたマリン郡に戻ってコーティ・フィルムズに就職した。その後、ルーカス・フィルムとILMに入り、 「スター・ウォーズ/ジェダイの復讐」(83)のゴー・モーション・フォトグラフィーと「インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説」(84)のマット・ペインティングを担当した。86年、24歳のときにプロパガンダ・フィルムズを共同で設立。 革命的なセンスで独特のスタイルを生み出し、瞬く間にミュージック・ビデオとコマーシャル業界に新しいスタンダードを確立した。ローリング・ストーンズ、マドンナ、スティーヴン・ウィンウッド、 エアロスミスなどのミュージック・ビデオでMTVアワードほか各賞を総なめにしている。また、コマーシャルのクライアントには、ナイキ、リーバイス、コカコーラ、バドワイザーなど超一流企業が名を連ねた。 映画監督デビュー作は「エイリアン3」(92)。95年にはブラッド・ピット、モーガン・フリーマンと組んで「セブン」を発表し、そのスタイリッシュな映像とダークなテイストが話題に。4週連続で興行成績の1位を突っ走っただけでなく、 批評家からも絶賛され、アカデミー最優秀編集賞にノミネートされた。その後、「ゲーム」(97)ではマイケル・ダグラスとショーン・ペンを迎えて、やはり人の心のダーク・サイドをヒリヒリするようなエッジの効いた演出でえぐって見せた。 今日の映画界で最も革新的な監督の一人と評されている。
(『ファイト・クラブ』のプレスより引用)

 

 

 
 
 
 


 フィンチャーは、物語の枠組みを明確にするような情報をできるだけ排除し、観客の想像力を刺激しようとする。それだけに、たとえばたったひとつの言葉から意味が広がっていくことにもなる。 "ゲーム"とは一体何なのか? 映画にはそれを暗示する興味深い言葉がある。「私は盲目であったが今は見える」というヨハネの福音書からの引用だ。

「もともとの脚本にはこの言葉はなかったけどぼくが付け足した。主人公がゲームの体験者にそれがどんなものか尋ねるんだけど、相手は何も喋らない。しかしそこで何か言葉が欲しいと思った。光を見た人物が語るような言葉、 結末を暗示しているけど具体的には何も説明していないような言葉がね。それでぼくがこの言葉を例にあげて、ウォーカーに何かそんな言葉が欲しいと言った。しかしそれから四ヶ月経っても他に相応しい言葉が出てこなかった。結果的にはこの引用はとてもよかったと思っているよ」

 このヨハネの言葉は、かつてマーティン・スコセッシ監督が『レイジング・ブル』のエンド・クレジットに引用し、『最後の誘惑』の劇中にもエピソードとして盛り込んでいる有名な言葉である。もちろんこの引用には、 現実的に目が見えるようになったというだけではない象徴的な意味が込められている。スコセッシは、ほとんどの作品でおよそ神や信仰とは無縁に見える人物たちを主人公に選び、それぞれの流儀による贖罪と超越的な体験の瞬間を描いてきた。 そしてフィンチャーもまた、新しい世代ならではの現代的な設定と映像を通してそんな瞬間を描こうとするのだ。

 映画『ゲーム』は、ヨハネ伝のこの盲人の話を踏まえてみるといっそう興味深く思えてくるはずだ。というのも盲人の話では、キリストと対立するパリサイ人たちが、キリストによって癒された盲人に対して、彼が罪人によって癒されたことを咎める。 するとこのかつての盲人は、自分を癒した人が罪人かどうかはわからないが、以前は盲目であったものがいまは見えると答える。

「まさにその話を比喩的に使ったんだ。(ゲームを提供する会社)CRSとは人の目を見開くものなんだ。主人公は、父親の自殺という十歳のときの体験がトラウマになっていて、父親の年令に達したとき自分がその二の舞になるのを恐れ、 人間関係を避けている。そんな彼をぎりぎりのところまで追いつめたときに何が見えるかということなんだ」

 この盲人の話を『ゲーム』の設定に置き換えてみると面白い符合が見えてくる。ゲームを提供する会社CRSは、"消費者娯楽サービス"の略称ということになっているが、何か別の言葉を連想しないだろうか。そう、キリスト(CHRIST)を暗示しているようにも見えてくる。 そうなると盲人の話と映画の結びつきは興味深いものになる。

 大金を注ぎ込んで構築されたゲームの世界によって癒されたある人間を、人々が罪人によって癒されたと咎めるとしよう。しかし、この信じがたいほど壮大なゲームで超越的な瞬間を体験し、心の目が開いた人間にとってそれは揺るぎない宗教になるのかもしれないということだ。 ぼくはこのCRSをめぐる符合のことをフィンチャーに尋ねてもすんなり受け入れるとは思っていなかったが、さらりとかわしながらも面白い答が返ってきた。

「それは偶然だよ。でも確かにアメリカのキリスト教保守派からは反発があった。しかも偶然だと説明したら、もっと馬鹿にしているということになって(笑)。どう転んでも誰かが屈辱されることになるんだ。でも『セブン』のときの過激な反応で慣れていたこともあって、 今回はあまり驚かなかった。自分ではユーモアのある比喩だと思うんだけどね」

 筆者は正直なところフィンチャーは確信犯だと思っているのだが、そうなると『ゲーム』はある種のブラック・ユーモアにも見えてくる。たとえば鍵のイメージである。主人公はこれから何が起こるのかわからないままに、謎の鍵を手に入れる。 その鍵に刻まれたCRSの文字はいかにもキリストを連想させる。その鍵はやがて彼を窮地から救うものであることがわかる。ところがさらに物語が進むと、今度はクルマのダッシュボードからまるでスロットマシンのコインのように鍵があふれだしてくる。 こうしたディテールは、現代における救いの意味を興味深い地平に引きだす伏線になっているように思えるのだ。

 そしてもうひとつ、彼の次回作に関するコメントも印象的だった。『レイジング・ブル』と『卒業』を足して二で割ったような映画だというのだ。これは筆者が質問で『レイジング・ブル』を引用したことに対するジョークかと思ったら、 それ以前のインタビューでも同じ答え方をしていたという。となると盲人の引用を通して『レイジング・ブル』と『ゲーム』が繋がることにもなる。やはり彼は、かなりのクセ者であり、確信犯である。

 デイヴィッド・フィンチャーは、ユニークな感性と一筋縄では行かない計算高さで世紀末を象徴するような斬新な宗教的イメージを切り拓いているのだ。

 
 
《関連リンク》
デヴィッド・フィンチャー 『ゴーン・ガール』 レビュー ■
ギリアン・フリン 『ゴーン・ガール』 レビュー ■
『ソーシャル・ネットワーク』 レビュー ■
『ゾディアック』 レビュー ■
『パニック・ルーム』 レビュー ■
『ファイト・クラブ』 レビュー ■
『ゲーム』 レビュー ■
『セブン』 レビュー ■

 
 
 
amazon.co.jpへ●
 
ご意見はこちらへ master@crisscross.jp
 


copyright