フィンチャーは、物語の枠組みを明確にするような情報をできるだけ排除し、観客の想像力を刺激しようとする。それだけに、たとえばたったひとつの言葉から意味が広がっていくことにもなる。
"ゲーム"とは一体何なのか? 映画にはそれを暗示する興味深い言葉がある。「私は盲目であったが今は見える」というヨハネの福音書からの引用だ。
「もともとの脚本にはこの言葉はなかったけどぼくが付け足した。主人公がゲームの体験者にそれがどんなものか尋ねるんだけど、相手は何も喋らない。しかしそこで何か言葉が欲しいと思った。光を見た人物が語るような言葉、
結末を暗示しているけど具体的には何も説明していないような言葉がね。それでぼくがこの言葉を例にあげて、ウォーカーに何かそんな言葉が欲しいと言った。しかしそれから四ヶ月経っても他に相応しい言葉が出てこなかった。結果的にはこの引用はとてもよかったと思っているよ」
このヨハネの言葉は、かつてマーティン・スコセッシ監督が『レイジング・ブル』のエンド・クレジットに引用し、『最後の誘惑』の劇中にもエピソードとして盛り込んでいる有名な言葉である。もちろんこの引用には、
現実的に目が見えるようになったというだけではない象徴的な意味が込められている。スコセッシは、ほとんどの作品でおよそ神や信仰とは無縁に見える人物たちを主人公に選び、それぞれの流儀による贖罪と超越的な体験の瞬間を描いてきた。
そしてフィンチャーもまた、新しい世代ならではの現代的な設定と映像を通してそんな瞬間を描こうとするのだ。
映画『ゲーム』は、ヨハネ伝のこの盲人の話を踏まえてみるといっそう興味深く思えてくるはずだ。というのも盲人の話では、キリストと対立するパリサイ人たちが、キリストによって癒された盲人に対して、彼が罪人によって癒されたことを咎める。
するとこのかつての盲人は、自分を癒した人が罪人かどうかはわからないが、以前は盲目であったものがいまは見えると答える。
「まさにその話を比喩的に使ったんだ。(ゲームを提供する会社)CRSとは人の目を見開くものなんだ。主人公は、父親の自殺という十歳のときの体験がトラウマになっていて、父親の年令に達したとき自分がその二の舞になるのを恐れ、
人間関係を避けている。そんな彼をぎりぎりのところまで追いつめたときに何が見えるかということなんだ」
この盲人の話を『ゲーム』の設定に置き換えてみると面白い符合が見えてくる。ゲームを提供する会社CRSは、"消費者娯楽サービス"の略称ということになっているが、何か別の言葉を連想しないだろうか。そう、キリスト(CHRIST)を暗示しているようにも見えてくる。
そうなると盲人の話と映画の結びつきは興味深いものになる。
大金を注ぎ込んで構築されたゲームの世界によって癒されたある人間を、人々が罪人によって癒されたと咎めるとしよう。しかし、この信じがたいほど壮大なゲームで超越的な瞬間を体験し、心の目が開いた人間にとってそれは揺るぎない宗教になるのかもしれないということだ。
ぼくはこのCRSをめぐる符合のことをフィンチャーに尋ねてもすんなり受け入れるとは思っていなかったが、さらりとかわしながらも面白い答が返ってきた。
「それは偶然だよ。でも確かにアメリカのキリスト教保守派からは反発があった。しかも偶然だと説明したら、もっと馬鹿にしているということになって(笑)。どう転んでも誰かが屈辱されることになるんだ。でも『セブン』のときの過激な反応で慣れていたこともあって、
今回はあまり驚かなかった。自分ではユーモアのある比喩だと思うんだけどね」
筆者は正直なところフィンチャーは確信犯だと思っているのだが、そうなると『ゲーム』はある種のブラック・ユーモアにも見えてくる。たとえば鍵のイメージである。主人公はこれから何が起こるのかわからないままに、謎の鍵を手に入れる。
その鍵に刻まれたCRSの文字はいかにもキリストを連想させる。その鍵はやがて彼を窮地から救うものであることがわかる。ところがさらに物語が進むと、今度はクルマのダッシュボードからまるでスロットマシンのコインのように鍵があふれだしてくる。
こうしたディテールは、現代における救いの意味を興味深い地平に引きだす伏線になっているように思えるのだ。
そしてもうひとつ、彼の次回作に関するコメントも印象的だった。『レイジング・ブル』と『卒業』を足して二で割ったような映画だというのだ。これは筆者が質問で『レイジング・ブル』を引用したことに対するジョークかと思ったら、
それ以前のインタビューでも同じ答え方をしていたという。となると盲人の引用を通して『レイジング・ブル』と『ゲーム』が繋がることにもなる。やはり彼は、かなりのクセ者であり、確信犯である。
デイヴィッド・フィンチャーは、ユニークな感性と一筋縄では行かない計算高さで世紀末を象徴するような斬新な宗教的イメージを切り拓いているのだ。 |