デイヴィッド・フィンチャーの『ゲーム』に登場する実業家は、死の瀬戸際まで追い詰められるリアルな“ゲーム”を体験することでトラウマから解放される。『ファイト・クラブ』のヤッピーは危険な妄想と暴力のなかで生を実感し、彼を呪縛する消費社会に攻撃を仕掛ける。
『ゾディアック』の風刺漫画家は警察やマスコミを翻弄する殺人犯にとり憑かれ、人生を狂わせていく。『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』では、老人として生まれ、若返っていく男の目を通して世界が描き出される。
フィンチャーが強い関心を持っているのは人間の内面であり、内面を通して見える世界だ。そんな彼にとって、世界最大のSNS“フェイスブック”の創設者マーク・ザッカーバーグは格好の題材といえる。この天才ハッカーのヴィジョンでは、人間はネットワークを構成するノード(結節点)だったからだ。
ところが意外なことにこの映画では、訴訟スキャンダルが物語の鍵を握る。フェイスブックを立ち上げ、旋風を巻き起こすマーク、彼にアイデアを盗用されたと訴える超エリート学生のウィンクルボス兄弟、彼に裏切られたと訴えるマークの友人にして共同経営者のエドゥアルドという三者の視点が絡み合っていくのだ。
つまりフィンチャーは、台詞の洪水のようなドラマを通して三者の認識の違いを鮮明にし、マークの内面に迫ろうとする。彼が求めていたのは、ウィンクルボス兄弟のような権威や階級に根ざしたコミュニティでも、エドゥアルドのような広告や取引の機会や可能性でもなかった。
この映画からは、生身の人間よりもノードとノードの接続が切り拓く世界に魅せられた若者のユートピアと孤独が浮かび上がってくる。
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