ケヴィン・スペイシーの初監督作品『アルビノ・アリゲーター』は、閉塞的な状況で繰り広げられるドラマが『レザボア・ドッグス』を彷彿させる。
ある不運な巡り合わせから、この閉塞的な状況を作ってしまうのは3人組の強盗だ。狙った会社に強盗に入ろうととしてしくじり、盗難車で逃走する彼らは、別の事件の張込みをしている捜査官をひき殺し、彼らを容疑者と勘違いして追跡してきた車に衝突し、衝突で負傷した仲間の手当をするためにとある地下のバーに逃げ込む。店はすぐに警官隊に包囲され、彼らは店にいた5人の男女を人質にそこに立てこもる。
店に出口はひとつしかなく、追いつめられた8人は、それぞれに生き延びるための駆け引きを繰り広げる。スペイシーは、限定された空間という設定を生かし、舞台を思わせる演出で登場人物たちの葛藤を浮き彫りにしていく。しかもラストには予想もしない結末が待ち受けている。
この映画で、その結末に繋がる伏線として見逃せないのが、ドヴァ、ロウ、マイロという3人組の強盗たちの関係に反映された宗教的な要素だ。彼らのあいだには、生き残るための葛藤と同時に宗教的な葛藤がある。それがこのドラマを象徴的なものにしているのだ。
この3人のキャラクターは実に対照的だ。ロウはきわめて衝動的で凶暴であり、人質の命を奪うことを厭わず、すべてを暴力で解決しようとする。マイロは逆に常に冷静な判断力を備え、他人を傷つけることなく事態が収拾することを切望している。そしてリーダー格のドヴァは、ふたりの仲間の気持ちを受けとめながら、その狭間を揺れ動いている。そんな3人の関係は、状況が切迫すればすぐにも統率を欠くかに見えるが、宗教的な要素に注目してみると、また違ったドラマが見えてくる。
たとえば映画の冒頭、盗みに失敗した3人が逃走している場面には、苛立つロウが車のミラーに掛かった十字架をバックシートのマイロに投げつけるといったやりとりがある。その後のドラマでも、ロウは執拗なまでにマイロに対して苛立ちや憎しみをあらわにする。またドヴァは、人質となった男女に向かって、彼が昔カトリックの学校に通い、教会のミサの侍者をつとめていた話をする。そんな話をしながら、犯罪を重ね転落した人生を自嘲するのだ。
映画ではそんな3人の男たちの過去は、ほとんど明らかにされることはないが、彼らのやりとりには3人が共通する宗教的な背景を持っていることが暗示されている。彼らは、その背景に対する怯えや反発ゆえに異なる方向へと駆り立てられるのだ。マイロは信仰に厚く、人質を殺すことに耐え難い罪悪感を覚える。一方ロウがそのマイロを目の敵のように扱うのは、共通する背景に対して激しい反発をおぼえるからなのだ。 |