清潔で閑静なサバービア(郊外住宅地)。そこは家族が平穏な生活を送るのに理想的な環境かもしれないが、ライフスタイルは画一化されている。何が幸福であるのかは人それぞれ違っていて当然のはずだが、そこでは幸福のかたちが限られてしまう。それでも隣人と同じように幸福であろうとすれば、どこかで幸福の芝居を演じなければならない。
そんなサバービアの表層と現実のギャップを描く映画は少なくないが、本年度アカデミー賞で主要な賞を独占した『アメリカン・ビューティー』はそのなかでも出色の作品である。この映画は、90年代も終わりにさしかかりつつあるいまのサバービアを実に巧みにとらえている。
まず注目したいのは、主人公一家とその両隣に暮らす家族のコントラストだ。一方の隣人は元海兵隊の退役軍人の一家で、もう一方はゲイのカップルである。これがレーガン政権の80年代であれば、彼らを保守とリベラルという言葉で表現できたはずだ。ところが、それから90年代にかけて、中流の人々は政治や社会に対する興味を失い、完全に中道化した。
だから仮に胸のうちに反発があっても表には出さないし、何よりもこれまで以上に人々の関心が家族そのものに向いてしまい、幸福の芝居に限界が訪れるのだ。
われわれ日本人が、この映画の主人公一家に起こる出来事を妙に身近に感じ、共感をおぼえるのは、そんなところに理由がある。アメリカの中流の立場を何とか相対化してきた要素も後退してしまい、日本と同じように閉塞しているということだ。
そこで、芝居に疲れたこの映画の両親と娘は、それぞれに自分が信じる美≠ノ向かって突撃を開始する。
朝のシャワーにまぎれてするマスターベーションだけが慰めだった父親は、娘の親友のチアガールに欲情し、彼女が好むタイプの男になろうと肉体改造に邁進する。いまの家を売ってもっと豊かな暮らしを送りたい母親は、地元の不動産王との不倫に溺れていく。そして、容姿にコンプレックスを持つ娘は、親友のように美しくなりたくて整形を考えている。
ところがこの娘は、隣の家から彼女を盗撮している超オタクな同級生に何か惹かれるものを感じ、整形のことを忘れて、彼に父親に対する嫌悪感や殺意すらほのめかすようになる。
この三人が選んだ美を比べてみると、もちろん娘が最も危険な選択をしたように見える。しかし実は彼らの選択には別の意味が込められているのだ。父親が肉体を改造することも、母親が不動産としての価値観からもっとよい家を求めることも、娘が整形をしようとすることも、すべて自分がどう見えるかという意識に基づいている。
しかし娘だけは、それが盗撮であれ自分をあるがままに見つめる視線に気づいたとき、自分がどう見えるかではなく、相手を見つめることで変わっていく。
そこに彼らの選択の本質的な違いがあり、実際映画は、彼らの選択から受ける当初の印象を、風刺とユーモアを散りばめた展開のなかで、見事に覆してみせる。家族に対するそんな鋭い洞察がこのドラマを奥深いものにしているのだ。父親や母親は幸福の芝居をやめ、欲望に正直に突っ走っているかに見える。
しかし、自分がどう見えるかという意識に縛られている限り、それもまた虚しい芝居であり、本当の自分は見えてこないのである。 |