スティーヴン・スピルバーグ02
Steven Spielberg 02


激突!/Duel――-――--―-―――-―――-―――-―― 1971年/アメリカ/カラー/90分
ジョーズ/Jaws―-―――-―――--――--―-―――-―― 1975年/アメリカ/カラー/124分
未知との遭遇/Close Encounters of the Third Kind―――― 1977年/アメリカ/カラー/135分
E.T./The Extra-Terrestrial―――――――――――--―- 1982年/アメリカ/カラー/115分
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(初出:『スピルバーグ――宇宙と戦争の間(クリエイターズ・ファイル)』2005年)
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偽りの世界としてのサバービア/アメリカ

■■豊かさと幸福を象徴するサバービアと孤独な少年■■

 アメリカでは第二次大戦後から50年代にかけて、国全体を塗り替えてしまうような勢いで郊外化が進んだ。テレビのホームドラマや広告は、豊かさと幸福に満ちたアメリカン・ファミリーのイメージに染まり、人々は、緑の芝生のある一戸建てが整然と並ぶ清潔で閑静なサバービア(郊外住宅地)に暮らすことに憧れ、続々と転居していった。

 スティーヴン・スピルバーグは、その郊外化のなかで成長した。彼が1946年に誕生したとき、両親のアーノルドとリアは、オハイオ州シンシナティの郊外にあるアボンデールに暮らしていた。その後、一家は49年にまずニュージャージー州ハドンフィールドに転居し、54年にはアリゾナ州フェニックス近郊のスコッツデイルに移る。その頃にはスティーヴンは、三人の妹たちの兄になっていた。一家はそこで10年ほど暮らし、最後に北カリフォルニアに転居し、やがてスティーヴンは映画の世界に身を投じることになる。

 スティーヴン少年は、そんな郊外の生活のなかで、自分の家族が他と違うことに気づく。アンドリュー・ユールの『スティーヴン・スピルバーグ 人生の果実』には、次のような記述がある。

自分たちの牧場スタイルの家がスコッツデイルでただ一軒、クリスマスに明かりで飾りつけをしない家だということを発見して、彼は正統派ユダヤ教の家族の一員であることによけい当惑するようになる。両親の信仰の外面の部分―毎週金曜日の夜とユダヤ教の祝祭日に、そろってシナゴーグに行くこと―これらの一切合切がスピルバーグの孤独感を深いものにした。世界中の何よりもまして彼は同じようになること、ほかのみんな≠フようになること、みんなから受け入れられることを望んだ

 詳しくは後に触れるが、スティーヴンは当惑しただけでなく、あからさまな差別や苛めにもあった。そこで筆者がぜひとも注目したいのは、そういうことがありながら、なぜ一家がWASPのサバービアに暮らさなければならなかったのか、あるいは暮らす必要があったのかということだ。

 アメリカの中流階級にとって成功とは何かを探るローレン・バリッツの『THE GOOD LIFE』には、50年代に郊外に転居した人々の様々なエピソードが紹介されているが、ここでそのなかから対照的なふたつの例を取り上げてみたい。

 あるイタリア系の男性は、家族や仲間たちとともに、黒人が流入してくる都市から郊外に転居した。彼らはGI Bill(復員兵援護法)のおかげで、土地と家を手に入れるというアメリカン・ドリームを実現したが、それと同時に伝統を失い、同化してしまった。その男性は、自分たちの文化が破壊されてしまったことを嘆いている。

 一方、あるユダヤ系の男性は、転居の候補にしたコミュニティを実際に見にいくと、他にユダヤ人がいるかどうかをチェックした。そして誰もいないか、あまりにも少数であれば、運動によってそこから締め出される可能性を考慮し、さらの別の町を探す。そして、たとえ99パーセントがユダヤ人であっても別の町を探したという。

■■WASPのサバービア、ユダヤ系に対する差別■■

 もしスティーヴンの両親が、このユダヤ系の男性のような選択をしていれば、彼の人生はまったく違ったものになっていたことだろう。だが、コンピュータ技師の草分けだった父親のアーノルドは、ユダヤ系である以前に、ウィリアム・H・ホワイトが命名した“オーガニゼーション・マン”のひとりだった。アメリカ社会は、家族や地域の縁故よりも学歴がものをいう世界へと変化し、組織に順応するホワイトカラーが増大していた。彼らは、故郷を捨て、組織に命じられるままに積極的に移動し、家族はサバービアを転々とすることになるのだ。


   《データ》
1971 『激突!』

1975 『ジョーズ』

1977 『未知との遭遇』

1982 『E.T.』

1987 『太陽の帝国』

1989 『オールウェイズ』

1993 『シンドラーのリスト』

1998 『プライベート・ライアン』

2001 『A.I.』

2002 『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』
『マイノリティ・リポート』

2004 『ターミナル』

(注:これは厳密なフィルモグラフィーではなく、本論で言及した作品のリストです)
 
 

―激突!―

 Duel
(1971) on IMDb


※スタッフ、キャストは
『激突!』レビューを参照のこと

―ジョーズ―

 Jaws
(1975) on IMDb


※スタッフ、キャストは
『ジョーズ』レビューを参照のこと

―未知との遭遇―

 Close Encounters of the Third Kind
(1977) on IMDb


※スタッフ、キャストは
『未知との遭遇』レビューを参照のこと


―E.T.―

 E.T. the Extra-Terrestrial
(1982) on IMDb


※スタッフ、キャストは
『E.T.』レビューを参照のこと

 さらにスピルバーグ家の場合には、父親の仕事の事情だけではなく、母親リアの意向も反映されていたようだ。フランク・サネッロの『スピルバーグの秘密』には、以下のような記述がある。

彼の母親のリアは冒険好きな女性で、ユダヤ人居住地域で暮らすことを望まず、いつも家族を引き連れて「キリスト教徒」たちの真ん中に飛び込んだ。もっとも今日、彼女は自分のルーツをそのようなかたちで拒絶したことを後悔している。
「わたし自身は正統派ユダヤ教の家で育ちましたが、自分の子どもたちは非ユダヤ人の居住区で育てようと決めたんです。それがわたしの犯した本当に大きな過ちでした。近所の子どもたちはしょっちゅう家の外に立って、『スピルバーグ家のやつらはきたないユダヤ人だ』と叫んでいましたよ」

 ここで重要なことは、スティーヴンの両親が単にWASPのサバービアを選択したということではなく、そういう選択をしながらも、コミュニティに完全に同化することなく、ユダヤ教徒としての習慣をそれなりに守りつづけたことだ。父親が属するコンピュータ技師の世界では、ユダヤ系であることが特別な意味を持つことはなかっただろう。だが、スティーヴンは、画一的なサバービアのなかで、ユダヤ系であるために辛い体験をする。いま引用した母親の言葉にある体験は、スコッツデイルでのものだが、一家が北カリフォルニアに転居すると、さらに悲惨な体験が待ち受けている。ユールの前掲同書には、それが以下のように記述されている。

悪口はそれまでの嘲笑程度のものからどんどんエスカレートした。自習室では小銭を投げつけられたし、袋だたきにされる恐れは常にあった。学校は家から歩いて行ける距離にあったが、やがて状況が悪化したために身の安全を考えて、彼は両親の車に乗せてもらわねばならなかった。今までのところ、彼のもっとも屈辱的な経験はこのときのもので、生涯忘れられないものとなった。最近スピルバーグはこのときのことについて次のように語っている。
「僕のこの半年間は個人的なホラー期間といっていい。今日にいたるまで、僕はあのときのことを乗り越えていないし、あいつらのことをひとりとして許していない」

===>2ページへ続く


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