■■郊外のコミュニティに埋没した人間への眼差し■■
スティーヴン・スピルバーグの世界観には、“サバービア”と“ユダヤ系”というふたつの要素が深く結びついた少年時代の体験が多大な影響を及ぼしている。彼は差別されたうえに、北カリフォルニアに転居してから間もなく父親が家を出て行ってしまったために、自分が家族の支えとなり、早く大人にならなければならなかった。そんな彼の複雑な内面は、初期の監督作品ではまず何よりもサバービアを通して描き出される。
トニー・クロウリーの評伝『The Steven Spielberg Story』のなかで、スピルバーグは、『激突!』 の主人公のことを“ミスター・サバービア”と形容し、このように説明している。「『激突!』のヒーローは、現代的な郊外生活に埋没した典型的な中流の下のほうにいるアメリカ人だ。(中略)彼は、テレビが壊れて修理屋を呼ぶといったことより難しい挑戦に応じることはいっさい望まないような男だ 」
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『ジョーズ』 では、ピーター・ベンチリーに原作と映画に登場する警察署長に大きな違いがある。映画の彼は、警察官の生き甲斐や義務を放棄し、凶悪な犯罪が横行する都市から、事件のまったくない海辺の避暑地に転居してきた男だ。しかも彼は、溺れかけた経験から水を恐れているという皮肉な設定まで盛り込まれ、ミスター・サバービアに近い存在に変えられている。
この2本の映画では、そんな日常やコミュニティに埋没した人間が、追い詰められ、戦うことを余儀なくされる。しかし、本当に恐ろしいのは、タンクローリーや巨大なサメではなく、それらを倒しても彼らがヒーローにはならないことだ。
彼らの勇姿を目撃している人間は誰もいない。彼らは、戦っているときだけ個人に立ち返るが、それは刺激的な幻想でもあり、終わってしまえば同じ日常が待っている。そこには、サバービアは決して変わらないという絶望が暗示されている。だから『未知との遭遇』 や『E.T.』 では、不毛で退屈なサバービアからの逃避願望が浮かび上がってくるのだ。
こうしたサバービアを舞台にした初期の監督作では、“ユダヤ系”の要素を直接的に見ることはできないが、『E.T.』の導入部には注目しておくべきだろう。仲間から離れて遠くまできてしまったETが、がけっぷちで草木をかきわけて目にする最初の人間の世界は、極端にいえば宇宙船よりも印象に残るサバービアの光のパノラマだ。
この場面では、ETという異質な存在の眼差しが、サバービアというものをあらためて意識させるが、それは、サバービアのなかで異質な存在として扱われてきたスピルバーグの眼差しでもある。ということは、ETと孤独な少年の絆を描くこの映画は、スピルバーグが自分で自分を救おうとする物語でもあるのだ。
■■同時代に対する絶望と危険な時代に対する憧れ■■
この『E.T.』以後、スピルバーグは、サバービアだけではなく、自分が生きる、あるいは生きてきた同時代をほとんどまったく描かなくなる。『オールウェイズ』は、第二次大戦中を舞台にした『ジョーと呼ばれた男』のリメイクで、スピルバーグが見つめているのが同時代ではないことは後に触れる。『ジュラシック・パーク』は、同時代といっても、その舞台は現実世界から完全に隔離されている。
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そして、同時代から離れた作品のなかでも特に注目する必要があるのが、『太陽の帝国』、『シンドラーのリスト』、『プライベート・ライアン』などに現れる40年代への深いこだわりだ。スピルバーグは、『STEVEN SPIELBERG INTERVIEWS』に収められた『太陽の帝国』のインタビューのなかで、そのこだわりを以下のように説明している。
「僕は個人的に80年代よりも40年代に親近感がある。あの時代が大好きなんだ。父親は戦争の話で僕の頭をいっぱいにした――彼はビルマで日本軍と戦ったB-25の無線士だった。僕は、あの純粋で途方もなく危険な時代とずっと一体感を持っている。(中略)それは、ある時代の終わり、無垢の終わりだった。僕は、大人になってからもそれに固執しつづけてきた。しかし40歳になって、固執してきたものと折り合いをつけなければならなくなった。
それは、『E.T.』、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』、『グーニーズ』を観にきてくれたたくさんの人たちによって数え切れないくらい再確認されたある種の純真さを賛美することだった。しかし、そんな限界まできたところで、『太陽の帝国』はあの時代に対する悪魔払いをする絶好の機会だと思ったんだ。僕は、この少年の無垢の死と世界の無垢の死が重なる物語を描きたかった。閃光が長崎を覆い、少年が光を見たとき――彼が本当に見たのか心で感じたのかは問題ではない。ふたつの純粋なものが失われ、悲しき世界が始まったんだ 」
筆者は、スピルバーグの同時代に対する絶望感が、彼を40年代に駆り立てたのだと思う。『太陽の帝国』の主人公ジムは、上海の外国人居住区に暮らしているが、その空間はサバービアと通じるものがある。しかし、そこから外に飛び出したら、「純粋で途方もなく危険な時代」がなくてはならないのである。そして、その時代のなかで、スピルバーグのサバービア体験が読み直される。
ジムは、イギリスに住んだことがないイギリス人という根無し草で、ひたすら受け入れられることを求め、ゼロ戦に憧れ、戦火による混乱のなかで降伏することに救いを求め、収容所でイギリス人の集団とアメリカ人の集団の間を行き来する。そうやって彼は、子供のまま大人になっていくのだ。
■■40年代への回帰、境界に立たされた者が切り拓く未来■■
しかし、『太陽の帝国』だけで悪魔払いは終わらなかった。スピルバーグは、『オールウェイズ』で、40年代の軍人の物語を80年代の消防士の物語に置き換えることで、現代に「純粋で途方もなく危険な時代」を再現しようとした。なぜそんなことをするのかといえば、第二次大戦以後の時代に、彼が受け入れられるような戦争が存在しないからだ。
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そして、その試みが失敗に終わると、『シンドラーのリスト』や『プライベート・ライアン』で再び40年代へと回帰し、『太陽の帝国』のジムの世界を、さらに掘り下げていく。この2本の映画には、同じ構造がある。まずどちらの映画でも、ユダヤ人ゲットーの解体とオマハ・ビーチへの上陸作戦という修羅場が描き出される。そこでは、ナチとユダヤ人、アメリカ兵とドイツ兵の間に明確な境界線が引かれている。命乞いも降伏も意味がない。
だが、主人公たちは、それぞれの事情で、その境界線に立たされることになる。商売で父親を越えることを望んでいたシンドラーは、戦争によって成功を収めていくに従って、ナチ党に帰属していることに対する違和感が生まれ、どちらにも帰属できない境界の存在となる。ライアン二等兵を救出するという新たな任務を与えられたミラー大尉と部下のなかでも、ドイツ人の少女や捕虜などをめぐって、帰属が絶対的なものではなくなり、彼らは境界の存在となる。この2本の映画でスピルバーグが関心を持っているのは、正義とか愛国心よりも、境界に立たされた者が生み出す未来なのだ。