■■死と結びついた水のなかから再生することの意味■■
一方、21世紀のスピルバーグには、明らかな変化が見られる。そこには、40年代に対する悪魔払いは見当たらない。『A.I.』や『マイノリティ・リポート』は未来を舞台にしたSFである。そして、『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』 と『ターミナル』では同時代の世界を描いている。筆者は、この4作品には共通するものがあるように思う。これまでスピルバーグは、40年代とともに、飛ぶことにひたすら固執してきた。しかし、この4作品では、飛ぶことよりも、異なるイメージからより大きな意味が生み出されている。
『A.I.』にも、ロボットのデイビッドが飛ぶ場面はあるが、もっと重要なのは、水に沈むイメージだろう。彼とマーティンがプールに転落したとき、マーティンだけが引き上げられ、彼は底に沈んでいる。この出来事によって、彼は母親と暮らすことができなくなる。水没したマンハッタンで自分の正体を知った彼は、水に身を投げるが、水中で偶然にもブルーフェアリーを見つける。そして、彼女の前で長い長い眠りにつく。水は死と深く結びついているが、そんな水のなかから再生するとき、彼の願いは叶う。と同時に、本物と偽物の逆転が起こる。デイビッドはそこに存在し、彼の記憶とテディが所持していた髪から、今度は母親が作られるのだ。
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『マイノリティ・リポート』でも、水のイメージが鍵を握っている。プレコグのアガサは、予知能力を高めるための特殊な液体に浸されている。かつてアガサの母親は、湖の辺におびき出され、水に押し込まれて殺されると予知された。犯罪予防局の刑事アンダートンを苛む過去もまた水と関係している。彼は、息子と公営プールで過ごしていた。ところが彼が水に潜っている間に、息子は姿を消してしまった。このドラマを興味深いものにしているのは、そんな三つのイメージの繋がりだ。
アガサの母親は、犯罪予防局の犠牲になり、現実と予知がすりかえられ、いまだに水の中の死というイメージのなかに封じ込められている。息子を亡くしたことが原因で、犯罪予防局の刑事となったアンダートンも、ある意味で水のなかに封じ込められている。アガサが彼に反応して抱きつき、母親の悲劇を再現してみせるのは、そうした繋がりがあるからだろう。
そして、彼らが協力して真実を暴き出すということは、犯罪予防局を支えていた現実と予知、本物と偽物が逆転することであり、アンダートンやアガサが、死と結びついた水から再生を果たすことをも意味する。つまりこの映画では、『A.I.』でわかりやすく表現されていた世界が、より象徴的な表現で描きなおされているのだ。
■■本物と偽物の逆転によって暴き出される偽りの世界■■
これに対して、『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』と『ターミナル』は、一見すると飛ぶことへの執着が甦ってきたかのようにも見える。前者では、詐欺師フランクがパイロットになりすまし、フライト・アテンダントの心をつかむ。空港のターミナルを舞台にした後者では、ビクターがフライト・アテンダントと恋に落ちる。だが、どちらの映画にも、飛ぶことのカタルシスはない。
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実話をもとにした『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』のフランクは、世代や両親との関係など、スピルバーグとダブるところが多々ある。フランクが父親を尊敬するのは、戦争の記憶と無縁ではない。父親はフランスに駐留しているときに、地元で一番の美女のハートを射止めて結婚したのだ。しかし、戦後という時代のなかでそんな神話はあっさりと崩壊し、離婚にショックを受けた彼は家を飛び出し、16歳の若さで詐欺師の才能を開花させる。彼は、パイロットや医師などになりすますことで、受け入れられる幻想を生きようとするのだ。
この映画を興味深いものにしているのは、フランクと彼を追うFBI捜査官カールの関係だ。カールは、偽物というフランクの本当の姿を受け入れている唯一の人間でもあり、彼らの間には父子を思わせる奇妙な絆が育まれていく。そして、紆余曲折を経た後で、フランクが、巧妙な詐欺を見抜く優れた能力を見込まれ、FBIに籍を置くことになるとき、偽物と本物が見事に逆転することになる。
フランクのアイデンティティや彼とカールの関係は、詐欺という偽物の上に成り立っている。彼らには、まず世界は偽物であるという前提があり、実際に偽物であることを見抜きつづけることによって、彼らは本物の家族になる。それは飛行の表現にも現れている。フランクがパイロットになりすましているときには、あえて飛行の光景を挿入しない。飛行が明確に描かれるのは、カールがフランクをフランスから護送してくる場面なのだ。それは、崩壊した両親の神話が、偽物と本物の逆転を通して再生されることを暗示している。
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『ターミナル』のビクターは、彼の故郷がクーデターによって消失し、どこにも帰属していない無国籍の人間になり、アメリカの手前でターミナルに留まりつづけることを余儀なくされる。入国係官の審査を受けるたびに、「入国不可」のスタンプを押される彼は、偽物ということになるわけだが、そこから逆転のドラマが生みだされる。
そもそも彼は、何のトラブルもなく税関を通り抜けていれば、いくら約束が大切なものであったとしても、彼自身は父親の影でしかなかったはずだ。ところが、無国籍となることによって、逆に影ではなくビクターとして存在するようになる。
ターミナルに根を下ろし、そこで働く人々に受け入れられていく彼は、グローバリズムを象徴する標準化された空間をコスモポリタニズムの空間に変えるともいえるし、ロシア人を助けたことで広まる彼の手形のコピーは、彼が本物であることの証明となる。そして、彼が偽物から本物に変わるとき、非現実的なターミナルこそが現実の世界となり、その外部にあるアメリカは現実感を失うことになるのだ。
スピルバーグは、彼が生きてきた同時代のアメリカを受け入れようとはしない。それは彼にとって、サバービアと同じように表層的な偽りの世界なのだ。それゆえに40年代という時代に固執してきた彼はいま、同時代に目を向け、本物と偽物の鮮やかな逆転を演出することによって、その偽りの世界を暴き出そうとするのだ。