J・G・バラードの最近の小説『コカイン・ナイト』や『スーパー・カンヌ』では、“ポスト・サバービア”ともいうべき最先端の人工的な楽園を舞台に、犯罪の概念が揺らぎ、崩壊する異様な世界が描きだされる。
『コカイン・ナイト』の舞台となる地中海沿岸の高級住宅地は、傍目には平穏そのものに見えるが、実際には盗難やレイプなどたくさんの犯罪が起こっている。だが、住人は誰も警察に通報しようとはしない。なぜなら、その犯罪こそが町に活気をもたらしているからだ。かつてこの町は生気を失っていたが、邪悪なカリスマが現れ、犯罪によって真のコミュニティに生まれ変わった。
ゲートや監視カメラに守られた楽園では、過去や未来というものの実感が失われ、退屈が人々を支配する。政治や宗教はすでに求心力を失っている。そんな状況のなかで人々の精神をかき立てるものは、もはや犯罪しかない。退屈な住宅地では精神科医が司祭の役割を果たしていたが、生まれ変わった町では、精神異常者が新たな司祭となっている。
そして、最先端のビジネスパークを舞台にした『スーパー・カンヌ』では、精神科医がいまだに司祭の立場にあるものの、彼が患者に処方するのは狂気である。このビジネスパークでは、狂気は病気ではなく治療法であり、エリートたちはスポーツのように暴力を行使することによって、健康と活力を得る。
バラードが提示するこうしたヴィジョンは、徐々にではあるが映画からも浮かび上がりつつある。たとえば、マイケル・ムーアの『ボウリング・フォー・コロンバイン』だ。この異色のドキュメンタリーは、99年のコロンバイン高校銃乱射事件を入口として、あの手この手でアメリカの銃社会に迫っていく。
そのなかでも特に興味深いのは、事件が起こったリトルトンのようなサバービアと貧しいマイノリティが暮らすインナーシティの間にある溝を鋭くとらえている部分だ。テレビで流通しているインナーシティのイメージは、現実を反映していない。視聴者の興味を引く犯罪や暴力ばかりが過剰にクローズアップされているのだ。
マイク・デイヴィスは『要塞都市LA』のなかで、こんなふうに書いている。「インナーシティの状況について直接肌で感じた知識を持ち合わせていない白人中産階級の想像力の中では、認識された脅威は悪魔学のレンズを通して拡大されるのだ」。その結果、セキュリティに対するパラノイア的な需要が生まれ、日常に銃や監視カメラが浸透していくことになる。
しかし、これはもはや単なる現実と認識のズレとはいえないのではないか。求心力を欠いたサバービアは、むしろパラノイアを必要とし、暴力的なイメージをたぐり寄せ、それに呼応するように内部からも暴力性や攻撃性を生み出しているということだ。
またこの映画は、事件とボウリングによって『スーパー・カンヌ』と繋がってもいる。加害者の若者たちはボウリング部に所属し、事件を引き起こす前にボウリングを楽しんでいた。そこでムーアは皮肉を込めて、マリリン・マンソンと同じようにボウリングも非難されるべきだと主張する。一方『スーパー・カンヌ』では、事件が会話に出てくるのに加えて、エリート集団が治療としての暴力を行使するときには、全員レザーのボウリング・ジャケットを着用しているのである。
そして、バラードに通じるヴィジョンがもっと明確に浮かび上がってくるのが、黒沢清の『アカルイミライ』だろう。この物語は、世代間の溝をめぐって展開していく。その溝はまず、おしぼり工場で働く守と雄二という主人公の若者たちと工場の社長の間で露になる。
猛毒を持つクラゲを飼育している守は、社長がそれに触れようとするのを黙って見つめている。しかし、この社長個人に対して敵意や悪意があるわけではない。ふたつの世代は、まるで異なる生き物が同じ人間のふりをしているかのように、ただ空間を共有しているに過ぎない。
守にクラゲを飼育する動機があるとすれば、それは社長の背景にあるものだ。社長は一戸建てに妻子と暮らす典型的な中流であり、守は画一化された中流の日常にクラゲを持ち込もうとする。このクラゲの存在は、バラードの小説における犯罪や狂気に近い。
そんなクラゲは東京の地下で増殖し、未知の領域を生みだす。そして、それぞれにこの未知へと境界を越えようとする守の父親の真一郎と雄二の間に、対立も含めた父子的な絆を育む。つまり、ただ空間を共有しているに過ぎなかったふたつの世代に対して、クラゲの存在がある種のセラピーの役割を果たすのだ。
しかし、バラードの小説の犯罪や狂気の効力に限界が見えてくるように、クラゲも社会の脅威と見なされた瞬間から、一方的に駆逐されていくのである。 |