黒沢清監督の新作『アカルイミライ』の物語は、世代間の溝をめぐって展開していく。その溝はまず、おしぼり工場で働く守と雄二という主人公の若者たちと工場の社長の間で露になる。猛毒を持つクラゲを飼育する守は、時として衝動的な行動に走る雄二が、クラゲに触れないように気を配っている。しかし、社長が触れようとしたときには、黙ってただ見つめている。そこには、反感や敵意といったものがあるわけではない。ふたつの世代に価値観の対立や衝突は存在しない。まるで異なる生き物が同じ人間のふりをしているかのように、空間を共有しているのだ。
「異なる価値観の衝突から、何か新しいものが生みだされるという考え方がそもそもおかしい。かつてはそれで社会が動いたことも確かにあったとは思いますが、僕が生きてきた実感からすると何も生まれなかったですね。それと、衝突して何かを生みだすというのは、かっこよく見えるけど、そうやって理解しあいたいんですよね。でも絶対にどこか食い違っていると僕自身、感じています。極端にいえば、一人ずつ他人のことはわからないよ、というところまで行き着きますね。ただ、そんなこといっても現実にはぶつからざるをえないわけですから、僕の言っていることの方が理想論である可能性もありますが、やはり僕は理解不能なものがあるのを認めるところから出発したい。この映画のような人間の在り方が、いいか悪いかは別として、もういまではこうでしかない、ここからどうするか考えないといかんだろうと思います」
『カリスマ』では、一本の木と森全体をめぐって人々が対立しているが、その対立に巻き込まれた主人公は、やがてこう語る。「特別な木も、森全体というものもない。平凡な木があちらこちらに生えているだけだ」。『回路』では、インターネットを通して生と死の境界が崩壊し、生きていることの現実感が揺らいでいく。これまでの黒沢作品では、明確な境界が崩壊していくプロセスからドラマが浮かび上がってきた。これに対して『アカルイミライ』では、最初は明確な境界は存在しない。ところが、守のクラゲが東京の地下で増殖することによって、日常のなかに未知の領域が広がり、新たな境界が生まれ、ふたつの世代の関係に波紋を投げかけていく。
「自分ではそこまで深く考えてなかったんですが、言われるとその通りかもしれません。これまで僕が作ってきた映画というのは、普通ここには境界線があると思われるところをどんどん踏み外し、曖昧になっていくというのが確かに多かったし、僕自身それが真実の姿だろうと思っていたふしはあります。いまもその考えに大きな変化があるわけではないのですが、これまでの作品に対して、暗い未来を予感させるという感想があまりにも多かったんです。境界をどんどん壊して、人間の在り方を描いていったときに、結果として非常に暗い未来を予感させていたとしたら、それは僕自身の意図ではないし、心外でもあるので、それなら未来は明るいという前提に立ってみようというのが、この映画を作る動機のひとつになったんです。だから、境界線を新たに引き直してみたのかもしれません。いずれにせよこの映画は、明るい未来とはこういうものですという大それた主張やヴィジョンを提示するものではない。そこまでは僕にはよくわからない。わからないけど、そういう前提に立ったとき、人間がどう見え、どういう関係になり得るのかということです」
黒沢監督の作品では、『復讐 運命の訪問者』『CURE』『蜘蛛の瞳』あたりから、表層的な日常としての郊外住宅地の光景が目につくようになった。『アカルイミライ』でも、おしぼり工場の社長一家が暮らす一戸建てが印象的に描かれ、そこで惨劇が起こる。
「僕も廃墟に住んでいるわけではなく、中途半端にそういうところに住んでいるんですが、わけもなく嫌いですね。まあ、個人的にはああいうインテリアを含めた近代日本の建築物の不愉快さに通じるんだけど。僕の映画では、すべてではないですけど、そういうところに住んでいる人がよく不幸な目にあう。というよりも、わりと普通の人という設定から、まさにおっしゃるように次第に境界がなくなって、最終的には普通ではなくなる、一個の個人となっていく。そういうときに、僕たちのほとんどがそこに住んでいる普通というものの代表として、ああいうものが出てくるんですね。少なくともフィクションの世界では、そこから抜け出してほしいと思うんでしょうね」 |