黒沢清インタビュー

2002年 五反田
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(初出:「キネマ旬報」2003年1月下旬号)
理解不能なもの、新たな境界線、そして明るい未来

 黒沢清監督の新作『アカルイミライ』の物語は、世代間の溝をめぐって展開していく。その溝はまず、おしぼり工場で働く守と雄二という主人公の若者たちと工場の社長の間で露になる。猛毒を持つクラゲを飼育する守は、時として衝動的な行動に走る雄二が、クラゲに触れないように気を配っている。しかし、社長が触れようとしたときには、黙ってただ見つめている。そこには、反感や敵意といったものがあるわけではない。ふたつの世代に価値観の対立や衝突は存在しない。まるで異なる生き物が同じ人間のふりをしているかのように、空間を共有しているのだ。

「異なる価値観の衝突から、何か新しいものが生みだされるという考え方がそもそもおかしい。かつてはそれで社会が動いたことも確かにあったとは思いますが、僕が生きてきた実感からすると何も生まれなかったですね。それと、衝突して何かを生みだすというのは、かっこよく見えるけど、そうやって理解しあいたいんですよね。でも絶対にどこか食い違っていると僕自身、感じています。極端にいえば、一人ずつ他人のことはわからないよ、というところまで行き着きますね。ただ、そんなこといっても現実にはぶつからざるをえないわけですから、僕の言っていることの方が理想論である可能性もありますが、やはり僕は理解不能なものがあるのを認めるところから出発したい。この映画のような人間の在り方が、いいか悪いかは別として、もういまではこうでしかない、ここからどうするか考えないといかんだろうと思います」

 『カリスマ』では、一本の木と森全体をめぐって人々が対立しているが、その対立に巻き込まれた主人公は、やがてこう語る。「特別な木も、森全体というものもない。平凡な木があちらこちらに生えているだけだ」。『回路』では、インターネットを通して生と死の境界が崩壊し、生きていることの現実感が揺らいでいく。これまでの黒沢作品では、明確な境界が崩壊していくプロセスからドラマが浮かび上がってきた。これに対して『アカルイミライ』では、最初は明確な境界は存在しない。ところが、守のクラゲが東京の地下で増殖することによって、日常のなかに未知の領域が広がり、新たな境界が生まれ、ふたつの世代の関係に波紋を投げかけていく。

「自分ではそこまで深く考えてなかったんですが、言われるとその通りかもしれません。これまで僕が作ってきた映画というのは、普通ここには境界線があると思われるところをどんどん踏み外し、曖昧になっていくというのが確かに多かったし、僕自身それが真実の姿だろうと思っていたふしはあります。いまもその考えに大きな変化があるわけではないのですが、これまでの作品に対して、暗い未来を予感させるという感想があまりにも多かったんです。境界をどんどん壊して、人間の在り方を描いていったときに、結果として非常に暗い未来を予感させていたとしたら、それは僕自身の意図ではないし、心外でもあるので、それなら未来は明るいという前提に立ってみようというのが、この映画を作る動機のひとつになったんです。だから、境界線を新たに引き直してみたのかもしれません。いずれにせよこの映画は、明るい未来とはこういうものですという大それた主張やヴィジョンを提示するものではない。そこまでは僕にはよくわからない。わからないけど、そういう前提に立ったとき、人間がどう見え、どういう関係になり得るのかということです」

 黒沢監督の作品では、『復讐 運命の訪問者』『CURE』『蜘蛛の瞳』あたりから、表層的な日常としての郊外住宅地の光景が目につくようになった。『アカルイミライ』でも、おしぼり工場の社長一家が暮らす一戸建てが印象的に描かれ、そこで惨劇が起こる。

「僕も廃墟に住んでいるわけではなく、中途半端にそういうところに住んでいるんですが、わけもなく嫌いですね。まあ、個人的にはああいうインテリアを含めた近代日本の建築物の不愉快さに通じるんだけど。僕の映画では、すべてではないですけど、そういうところに住んでいる人がよく不幸な目にあう。というよりも、わりと普通の人という設定から、まさにおっしゃるように次第に境界がなくなって、最終的には普通ではなくなる、一個の個人となっていく。そういうときに、僕たちのほとんどがそこに住んでいる普通というものの代表として、ああいうものが出てくるんですね。少なくともフィクションの世界では、そこから抜け出してほしいと思うんでしょうね」


◆プロフィール
黒沢清
1955年兵庫県神戸市生まれ。立教大学在学中より8ミリ映画の自主製作・公開を手がける。大学卒業後、長谷川和彦、相米慎二らの助監督を経てディレクターズ・カンパニーに参加し、83年『神田川淫乱戦争』で商業映画デビュー。続けて85年『ドレミファ娘の血は騒ぐ』、89年『スィートホーム』を発表。92年にはオリジナル脚本『カリスマ』がサンダンス・インスティチュート(U.S.A.)のスカラシップを獲得し、研修の為渡米。95年より『勝手にしやがれ!!』シリーズ、『復讐』シリーズなど多数の作品を発表。97年『CURE』が東京国際映画祭に出品されたのを契機に、『ニンゲン合格』(98年)のベルリン国際映画祭、『カリスマ』(99年)のカンヌ国際映画祭監督週間、『大いなる幻影』(99年)のヴェネチア国際映画祭など世界各国の映画祭から招待が殺到し、国際的評価を高める。それに続き、香港、エジンバラ、トロント、パリ、台北、ロッテルダム等の各映画祭でこぞって『黒沢清特集』が組まれた。2000年には、パリを初めフランス数ヶ所で『CURE』『ニンゲン合格』『カリスマ』が公開され、カンヌ国際映画祭『ある視点』部門に出品された『回路』(2000年)は、国際批評家連盟賞を受賞した。現在、日本で最も重要かつ著名な監督として世界の熱い視線を浴びている。
(『アカルイミライ』プレスより引用)

 

 


 『アカルイミライ』で、その普通の対極にあるのが増殖するクラゲの存在だ。クラゲは、それぞれに境界を越えようとする守の父親の真一郎と雄二の間に、対立も含めた父子的な絆を育み、また普通に対する脅威ともなる。

「これはかなり意図的に作ったんですが、世代がどうであれ、彼らが社会のなかにいることを最もわかりやすく示すのが警察の存在で、この映画には意外によく警察が出てくる。法律を犯せば警察は問答無用に動く。前半ではクラゲは一見そこから自由に見えるんですが、後半で人を刺しだすと警察は問答無用で退治しにかかる。それが社会という枠であって、クラゲはさすがにそこから逃げだしますが、人間はいまのところ抜けだせない。その外には何かあるんですが、クラゲのようにはいかず、東京という実に狭いところで共存している。そういうことは、狙ってやりました」

 この映画には、先述したふたつの世代の他に、雄二の世代よりもさらに若い十代のグループが登場する。真一郎や雄二がクラゲという異物に近づくためには、特別な力を必要とするが、この少年たちの場合は違う。クラゲと同じように光を放つヘッドセットをつけ、ただ刺激だけを求めてオフィスビルに侵入したり、東京の路上を無目的に彷徨う彼らは、限りなくクラゲに近いものに見える。

「雄二の世代にも、いまの十代の中高生のことはよくわかりません。この少年たちは、まだぜんぜん認識していないかもしれないけど、何か力を秘めているのだと思います。僕のなかでも、彼らとクラゲは果てしなくイコールです。最後に彼らが向かっている方向が、クラゲと同じ海なのか、それとも街なのかはわかりませんが、まあ逃げだすことはできないでしょう。彼らはこれから年をとっていくわけですが、この時点での在り様はクラゲとまったく同じなのかもしれません。
もうひとつクラゲに託したイメージがあって、クラゲのなかでもある種類のものは光るらしいんですが、ただ淡い光なんです。そういうクラゲが暗闇のなかをどこかに流されていく。前をサーチライトのように照らしてはいないけれども、しっかり自分で光を放っている。そんな在り様が、理屈ではなくイメージとして、僕らがどこか未来に向かっていることと似ているのかなと思ったんです」

 最後に、黒沢監督の最新作『ドッペルゲンガー』は、どんな映画なのだろうか。

「もう完成してますが、公開はまだ先のことで、ずばりコメディですね。ふざけた映画です。境界は露骨に絡んできますね。これはコメディだから成立した映画なんですけど、ひとつだったものがふたつに割れる。まさにドッペルゲンガー(分身)なんですけど、最終的にそのふたつが融合する。でも、もとに戻るのかというと全然戻らない。むちゃくちゃなものになっています。決して難しいものではなくて、バカ映画なんですけどね」


(upload:2004/02/21)
 
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