アラン・パーカー監督の映画でまず印象に残るのは、登場人物たちを閉じ込め、自由を奪う檻のイメージである。『ミッドナイト・エクスプレス』の主人公ビリーは、イスタンブールの空港で麻薬を所持しているのを発見され、トルコの刑務所に収監され、苛酷で不条理な体験を余儀なくされる。『バーディ』では、ヴェトナムの戦場で精神錯乱に陥ったバーディが、精神病院の病室に監禁されている。『愛と哀しみの旅路』では、太平洋戦争中に敵性外国人とみなされた日系アメリカ人たちが、収容所に送られ、劣悪な環境での生活を強いられる。『ケロッグ博士』の舞台である療養所もまた、妻によって半ば強引に連れてこられたウィルなどにはやはり檻となる。
パーカーが描くのは、そんなふうに外部にあって、目に見える檻だけではない。『ピンク・フロイド / ザ・ウォール』で、現実と妄想の狭間に出現する壁も、主人公と世界を隔てる境界である。ウィリアム・ヒョーツバーグが書いた異色のハードボイルド小説を映画化した『エンゼル・ハート』では、自分という檻の恐怖が鮮烈に浮き彫りにされる。主人公の探偵ハリー・エンゼルは、正体を隠した悪魔の依頼で失踪した男の行方を追うが、やがて探している男が自分であること知る。しかし、その真実にたどり着いたとき、彼はすでに悪魔に魅入られ、自分という檻の囚人となり、地獄に堕ちていくのだ。
『ミシシッピー・バーニング』には、ふたつの檻を見ることができる。人種隔離政策で自由を奪われ、疎外された南部の黒人たちは、ほとんど外部にある檻に閉じ込められているに等しい。その一方でこのドラマでは、KKKの一員でもある保安官代理の妻でありながら、次第にFBI捜査官に心を開き、捜査に協力する女性の存在を通して、もうひとつの檻が描きだされる。彼女は、幼い頃から差別意識を植えつけられてきた自分という檻のなかで苦悩し、それから解放される道を選ぶのだ。
また、冒頭で触れた外部に現実の檻が描きだされる映画も、この『ミシシッピー・バーニング』と同じように、外部の檻をめぐるドラマに終始するわけではない。『バーディ』で精神病院に監禁されているバーディは、子供の頃から自分が鳥になって自由に空を飛ぶことができると信じ、失敗を繰り返している。彼は、いわば鳥かごのなかの鳥であり、自分という檻から抜けだすことを夢見つづけているのである。『ケロッグ博士』も、療養所が檻になるだけではない。そのドラマでは、健康を求めているつもりが、いつの間にか逸脱し、それぞれに自己の欲望の虜になっている夫婦の姿が、風刺的に描きだされるのだ。
アラン・パーカーは、外部にある檻、そして自分という檻めぐるドラマを通して、人間や社会を鋭く掘り下げていく。この独自の視点と表現は、彼がロンドン生まれのイギリス人であることと無縁ではない。海外からアメリカ映画界に進出したものの、非情なショービジネスに飲み込まれ、個性を失ってしまう監督は決して少なくない。そんななかで彼が成功を遂げてきたのは、アメリカという彼にとっては未知の世界に対して常に積極的な関心を持ち、表層的なアメリカではなく、その深層をとらえようとしてきたからだ。檻のイメージは、彼のそんな探究心から発展し、もうひとつのアメリカを描きだすための効果的な手段になっているのだ。
アメリカの死刑制度を題材にしたこの『ライフ・オブ・デビッド・ゲイル』では、そんなパーカーの世界がさらに突き詰められている。この映画には、外部の檻と自分という檻があり、そのふたつの密接な結びつきが、緊張感を生みだすと同時に、ドラマを奥深いものにしている。 |