ユージュアル・サスペクツ
The Usual Suspects


1995年/アメリカ/カラー/105分/スコープ・サイズ/ドルビーSR
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(初出:『ユージュアル・サスペクツ』劇場用パンフレット、若干の加筆)

 

 

集団を操る虚像の力学

 

 アメリカ映画界の新鋭ブライアン・シンガーの2作目となる『ユージュアル・サスペクツ』は、最後まで先の見えないスリリングな展開を誰もが楽しめる映画ではあるが、この作品の本当の面白さや魅力というのは、意外に見えにくいのではないかと思う。

 たとえば、犯罪をめぐってどこか怪しい人物たちが次々と登場し、緻密な構成によって物語が二転三転し、最後に意外な真相が明らかにされるというような映画は必ずしも珍しいわけではない。この『ユージュアル・サスペクツ』を、 そういうタイプの作品の一本というように単純に納得してしまい、真相の意外性や面白さを云々することになると、この映画の魅力は半減してしまうことになる。というのも、この映画の場合は、作品そのものの出発点が、そういうタイプの作品とはまったく違ったところにあるからだ。

 それは、ブライアン・シンガーのデビュー作で、サンダンス映画祭のグランプリに輝いた『パブリック・アクセス』を振り返ってみるとよくわかる。この映画は、日本では映画祭で公開されただけで一般公開されていないため、あまり知られていないが、 実に面白く、しかも、『ユージュアル・サスペクツ』の魅力を探るヒントになるような興味深い内容になっている。


◆スタッフ◆

監督/製作
ブライアン・シンガー
Bryan Singer
脚本 クリストファー・マックァリー
Christopher McQuarrie
撮影 ニュートン・トーマス
Newton Thomas Sigel
音楽/編集 ジョン・オットマン
John Ottman

◆キャスト◆

マイケル・マクマナス
スティーヴン・ボールドウィン
Stephen Baldwin
ディーン・キートン ガブリエル・バーン
Gabriel Byrne
フレッド・フェンスター ベニチオ・デル・トロ
Benicio Del Toro
デイヴィッド・クイヤン チャズ・パルミンテリ
Chazz Palminteri
トッド・ホックニー ケヴィン・ポラック
Kevin Pollak
コバヤシ ピート・ポスルスウェイト
Pete Postlethwaite
ヴァーバル ケヴィン・スペイシー
Kevin Spacey

(配給:アスミック)
 
 


 アメリカのありふれたスモールタウンに、ある日、正体不明の男がやって来て、ケーブル・テレビのファミリー・アワーの時間帯を買い取り、自ら進行役となって住民が電話で自由に参加できる番組を始める。この番組は、求心力を欠いたコミュニティの新たな中心となり、 男は、町の住人たちに挑発的な質問を浴びせることによって、見えないところにくすぶっている不満や批判を暴きだしていく。ところがその先に恐ろしい展開が待ち受けている。一見公正でリベラルに見えたこの男は、最終的には、 コミュニティの表面的な利益や理想に異議を唱える個人を叩きつぶすようなアメリカの一面を象徴する存在であったことが明らかになるのである。

 このようにテーマに社会性を盛り込んだ『パブリック・アクセス』と『ユージュアル・サスペクツ』がどのように結びつくのか不思議に思う人がいるかもしれないが、このデビュー作の核心にあるものを抜きだしてみると、興味をそそられるはずである。 『パブリック・アクセス』に登場する正体不明の男は、必ずしも特別な権力を持った存在ではない。ところが、彼がメディアの力を借りて集団の中心に立つと、集団のなかに錯綜する個人の思惑や感情が男の存在を虚像に変え、その虚像に強大な力をもたらし、 あげくの果てには、集団そのものが虚像にからめ捕られることになる。

 というように書けば、もうおわかりだろう。『ユージュアル・サスペクツ』のカイザー・ソゼとは、まさにこの虚像なのである。そしてもちろん、この映画が非常に魅力的なのは、『パブリック・アクセス』に共通するこのようなテーマが、 まったく異なるジャンルを装った設定のなかで、実に緻密に検証されているところにある。つまりこの映画は、真相がわかればそれでお終いとか、結末の意外性を云々するタイプの作品ではなく、すべてが明らかになったところから、 虚像の力学とでもいうべきもののリアリティをじわじわと反芻してしまうところに本当の面白みがあるのである。

 実際、この映画に描かれているドラマは、この虚像の力学の反芻によって、人物を動かす者と動かされる者、操る者と操られる者との関係が皮肉な転倒を繰り返していくことになる。

 この映画は、埠頭に停泊する貨物船爆破の真相をめぐって、詐欺師キントの証言を頼りにそもそもの発端からの出来事が再現されていく。その過程では、カイザー・ソゼの存在はおろかその名前すらなかなか前に出てこないが、すでにそこには虚像の力学が働いている。 ニューヨーク市警と合衆国関税局は、匿名の情報をもとに5人の"常連容疑者"を連行し、泥を吐かせようと彼らをしぼる。

 しかし、結果からすれば、これは匿名の情報に操られた当局が、黒幕の陰謀に加担して彼らを集めるお膳立てをし、さらに厳しく尋問することによって、 彼らが結束を固める手助けまでしていることになる。一方、それを機会に結束を固め、新たな犯罪に乗りだす常連容疑者たちも見事にはめられたことになる。要するに、当局の人間も容疑者たちも自分の意思と判断で行動しているかに見えて、すでに完全に操られているのだ。

 それから、カイザー・ソゼの名前が浮かび上がり、5人の男たちは、自分たちが出会うように仕組まれていたことをやっと知ることになるが、その時にはソゼの存在は、彼らを引き寄せる磁場を持った虚像になっている。なぜなら、男たちは、宝石だと信じて麻薬を強奪し、 ボディガードを射殺し、泥沼にはまり込んでいるからだ。そこで、彼らは、貨物船を襲撃せざるを得ない立場に追い込まれるが、この激しい銃撃戦の場面でも、彼らがソゼの本当の目的すら知らずに命をはるところに、最後まで操られつづける者たちの皮肉な運命が浮き彫りにされているといえる。

 しかも、もっと皮肉なことに、ドラマの現在進行形の流れのなかでは、詐欺師キントが、映像が暗示する過去の事実を巧みにすり抜けながら、証言を続けている。そして、言うまでもなくこのキントと捜査官の駆け引きもまた、虚像の力学の大きな見どころになっている。 キントは、ソゼに対する恐怖感を吹聴しながら、捜査官のキートンに対する先入観や疑念をさり気なく煽り、そこで捜査官のなかに頭をもたげる疑心暗鬼が、ソゼの正体をつかみそこねる結果を招くことになるからだ。

 とまあ、このように反芻してみると、この『ユージュアル・サスペクツ』が、最後まで先の見えないスリリングな犯罪映画とは異質な作品であることがおわかりいただけるだろう。このソゼという虚像をめぐる人間ドラマは、突き詰めていけば、『パブリック・アクセス』のような小さなコミュニティから、政治や宗教など、個人の思惑や感情が錯綜する集団の世界すべてに当てはまるテーマを描いていることになる。

 つまり、この映画で、ブライアン・シンガーの関心は犯罪映画にあるのではなく、彼は、まったく異なる出発点から、 犯罪映画のジャンルや設定を最大限に利用して、集団と個人をめぐる普遍的なテーマを掘り下げている。そんなシンガーのユニークな視点が、『ユージュアル・サスペクツ』をよく出来た犯罪映画に見えて、実は犯罪映画とは言いがたい異色で奥の深い作品にしているのである。

 
 
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