この映画からは、そんなワイリーの存在を通して、単純な苦情だけではなく、コミュニティの問題やその影にひそむ感情が浮かび上がってくる。たとえば、50年代にこの町の町長だった老人は、この番組にゲストとして出演し、町の欠点は個人のプライドが失われ、住民がみんな歯車のひとつになってしまったことだと発言する。
さらに興味深いのは、路上で町のヒーローになりつつあるワイリーを見かけ、彼にくってかかるティーンの発言である。そのティーンはほとんど泥酔に近い状態で、ワイリーに向かってこんな言葉をはきちらす。
「どうしてこうなったか、レーガンさ。俺たちの親は、何でも信じた。読んだり聞いたりしたことを、全部信じた。ひどい目にあって、ようやく考えなおした。政府や新聞やボスたちが、嘘をついていたことを知ると、一斉に反発したよ、それが当たり前だ。だけどみんな、年をとって疲れてる。争いを好まない。愚かで幸せだった昔が懐かしくなって、また何でも信じはじめた。俺たちも危ないよ」
いうまでもなく彼は、行き場を失い、酒でうさをはらすしかないレーガン時代のティーンである。
しかしこのコミュニティからは、住民の知らない、もっと切迫した問題が浮かび上がってくる。現町長は、貯蓄組合の金(つまり住民の金だ)を勝手に町の産業を支える企業に融資していたが、その企業はいままさに潰れようとしていたのだ。町の財政は崩壊寸前のところにあった。その事実を知ったワイリーは、問題を公にしようとしている教授と対面する。
ところが、この映画の本当の恐ろしさが明らかになるのは、町の真実が見えてきた後のことだ。まず泥酔したティーンの死体が発見される。といえばもうおわかりだろう。謎の男ワイリーは、このコミュニティの理想に異議を唱えようとする個人を処分し、番組のゲストとなった現町長とにこやかに握手をかわし、町を去っていく。彼はいわば、コミュニティの反映されたアメリカの理想を象徴する存在なのだ。
そしてこれが、『トラスト・ミー』とは対照的な結末ということだ。この二本の映画は、コミュニティの理想と個人の希望を描いているので、当然といえば当然だが、象徴的なイメージまで含めて共通する(あるいは見事に対照的な)部分が多くみられる。
まず『トラスト・ミー』のマシューは、テレビを拒絶することで個人の希望を守ろうとする。一方『パブリック・アクセス』のワイリーは、テレビを最大限に利用することで、コミュニティのなかから異分子をあぶり出し、処分する。
『パブリック・アクセス』には、ワイリーが、借りたアパートのバスタブを真剣な表情でみがくシーンが出てくる。『トラスト・ミー』のあの清潔にまつわるイメージがあるだけに、このシーンは妙に生々しくみえる。そしてもちろん、ワイリーは外見の清潔さを維持するほうの立場にいる。
さらに眼鏡のイメージである。これはシンガー監督も認めていることだが、ワイリーは眼鏡をかけているかどうかで二重人格的に描かれている。眼鏡をかけているときは冷静なヒーローだが、異分子を血祭りにあげるときにはその眼鏡がない。『トラスト・ミー』のマリアは、恥ずかしがって眼鏡を隠していたが、マシューに似合うといわれてからよく眼鏡をかけるようになり、自暴自棄ではなく前を見るようになる。
そして二本の映画の結末は対照的だと書いたが、映画が本当に意味するところはもっと複雑である。ワイリーは異分子を処分して、コミュニティの理想を守るが、このコミュニティは間もなく町を支える企業の倒産で崩壊することになる。『トラスト・ミー』は希望の映画だが、現実的には、テレビの製造工場にこもり、手榴弾で自爆しようとしたマシューは逮捕され、町から連行されていく。それでもマリアは、眼鏡をかけて彼を見送りつづけるのだが……。
この二本の映画は、個人の希望が描かれていても、コミュニティの理想が描かれていても、その背景に目をこらせば、どちらの監督もいままさに硬直し、崩壊しつつあるコミュニティをとらえている。
80年代の保守化は、ある意味ではアメリカ全体が50年代の価値観を見直す時代だったといえるわけだが、90年以降に発表されたこの二本の映画には、その後の現実をかいま見ることができるだろう。郊外のコミュニティに反映されたアメリカの理想は、いままさに大きな岐路に立たされているのだ。 |