ケヴィン・スペイシー
Kevin Spacey


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(初出:日本版「Esquire」1998年6月号)

 

 

秘められた男

 

 アカデミー助演男優賞を受賞した『ユージュアル・サスペクツ』『セブン』でドラマの登場人物と観客を翻弄し、その曲者ぶりを強烈に印象づけたケヴィン・スペイシーは、いまや新作が目白押しで、 演技派として最も注目される存在になっている。もちろんこれはスペイシーにとって喜ばしいことに違いないが、雑誌などで取り上げられた彼の様々なインタビューを眺めてみると、 その発言には徹底した演技派の俳優がスター≠ノなってしまったことに対する困惑やら苛立ちのようなものが見え隠れしている。

 『ユージュアル・サスペクツ』や『セブン』のキャラクターがあまりにも強烈だったために、 スペイシー本人と彼らのイメージが暗黙のうちに重ね合わされているということが多々あるのだ。そこで彼は、自分は演技をする役者であり、そういうキャラクターを演じているだけなのだという発言を繰り返すはめになっている。

 スペイシーが自分自身と彼が演じるキャラクターの境界に対して神経質になっているのは、昨年、米版「エスクァイア」に掲載された彼のカヴァー・ストーリーの影響もある。この記事には、 スペイシーはゲイだという噂が取り上げられ、そのことでこの境界にさらにこだわるようになったのだ。ちなみにアメリカでは一般にこの記事が中傷の類ととられたようだが、必ずしもそうではない。

 たとえば、インターネット上ではスペイシーの熱狂的なファンたちがそれぞれに密度の濃いサイトを作っているが、そのうちのひとつ"The World Can Kiss My KEVIN SPACEY"(現在のURLは不明)では、 この記事に反発するスペイシーの意見も斟酌した上で記事を絶賛し、ファンにチェックすることを強く勧めている。その言い分は、記事のタイトルである"ケヴィン・スペイシーの秘密"とは、 実際に中身をよく読めば彼のセクシャリティのことではなく、彼がどこまでも俳優だということを意味しているということだ。

 筆者はこのファンの意見は決して間違いではないと思うし、スペイシーの反発や苛立ちというのも本質的には、世間が騒ぐほどにはセクシャリティの問題にこだわっているわけではないように見える。 彼が自分とキャラクターの境界にこだわる理由は、彼の立場を考えればある程度察することができる。

 スペイシーは、80年代初頭にブロードウェイのデビューを飾り、舞台俳優としてすでに長いキャリアを築きあげ、トニー賞も受賞している。そして、「舞台は映画への踏み台ではない。 私の人生に無くてはならないものだ」(「Time」誌97年9月15日号)と語るように、最近もロンドンで舞台に立っている。ところが、彼が映画の世界で大きな注目を浴びることになったキャラクターというのは、彼の演技に加えて映画の魔術が大きく作用している。 『ユージュアル〜』では彼がけちな詐欺師に徹するほどカイザー・ソゼの存在が膨らみ、『セブン』では彼が扮する凶悪な殺人犯が実際に犯行をおこなう場面は一切描かれることがなく、その巧みな演出が殺人犯の存在をいっそう際立たせている。 そんなキャラクターが一人歩きし、自分とどこかで重ねて見られることは、スペイシーにとってみれば迷惑な話だろう。

 
 
 
 
 


 彼は「Max」誌本年(98年)3月号で新作についてこう語っている「私は人々が私にいだく心象を修正していってほしいと思っている。だからこそ『LAコンフィデンシャル』と『真夜中のサバナ』の役を引き受けたんだ。 ふたつのキャラクターは私にとって実に魅力的だった。彼らはまったく違うが、どちらもこれまでの生き方、人生を変える選択を迫られることになるんだ」。彼はこの『真夜中のサバナ』では貴族趣味の骨董商に扮しているが、 物語には彼がゲイであることが露見するという展開が盛り込まれている。それゆえに、先述の記事のなかで特にセクシュアリティの部分に敏感に反応することになったのだろう。

 それはともかくとして、確かにこの2本の新作で彼は自分が求めるキャラクターに近づきつつあるのを感じる。特に『LAコンフィデンシャル』は映画の世界そのものも彼を惹きつけたのではないかと思う。彼は、 インターネットの「Mr.Showbiz」のインタビューで、50年代に戻るのはどんな気分かという質問に対して「私はこの時代が大好きで、また、いつも警官を演じたいと思っていた」と語っているし、英「UNCUT」誌97年12月号ではこうも語っている。 「いまの時代に『LAコンフィデンシャル』のような映画を作ることは勇気のいることだ。これは『チャイナタウン』やアルトマンの『ロング・グッドバイ』以来、最も複雑な犯罪映画だろう。しかし40年代や50年代には、この手の知的なストーリー・テリングを量産する産業が確立されていたんだ」

 但し『LAコンフィデンシャル」には、40〜50年代のフィルム・ノワールや『チャイナタウン」とはまた違った魅力がある。それは映画の原作者であるジェイムズ・エルロイによるところが大きい。 これは彼の母親の惨殺事件を題材にした自伝的作品『My Dark Places』(邦題「わが母なる暗黒」)を読むとよくわかる。母親を失ったエルロイは、母親の事件とブラック・ダリア事件を頭のなかで結びつけ、ダリアを自分が救いだす妄想にとりつかれ、 本人が言うところの"タブロイド的な感性"を研ぎ澄ましていった。彼はそんなタブロイド的感性によって50年代ロサンジェルスの裏側の世界を生々しく浮き彫りにするのだ。

 映画『LAコンフィデンシャル」には、それぞれに過去を背負い、欲望や野心に駆られる三人の警官が登場する。彼らはある事件をきっかけに絡み合い、真相に迫っていくことになるが、他の二人に比べて出番は多くないものの、 映画の世界とドラマの重要な鍵を握るのがスペイシー扮するジャック・ヴィンセンズだ。この映画はエルロイの原作を生かし、50年代ロスで暗躍しているタブロイド新聞の編集者のナレーションから物語が動きだす。そして、この編集者と裏で繋がっているのがジャックなのだ。 彼は有名人のスキャンダルをタブロイド新聞に売り、刑事もののドラマのアドバイザーとして売名に励み、虚栄の世界を生きている。しかしながらそんなタブロイド的な世界から事件の真相に迫る糸口が見え、選択を迫られることになるのだ。

 スペイシーはエルロイや監督のカーティス・ハンソンとは世代が違うが、同じようにロスとは縁がある。彼の生まれはニュージャージーだが、ロス郊外のサン・フェルナンド・ヴァレー近辺を転々として育った。サン・フェルナンド・ヴァレーといえば戦後いち早く郊外化が進み、 アメリカの夢の象徴となったが、それだけに荒廃するのも早く、後にアメリカでも最も離婚率の高い場所に数えられることになった場所でもある。彼と映画の出会いは、子供の頃に両親が寝た後でテレビの深夜映画でスペンサー・トレイシーやハンフリー・ボガート、 ヘンリー・フォンダの作品を見ていたことだという。そんな彼は家族との生活に馴染めず、家を離れることが役者の道につながっていく。という意味では、彼は50年代に始まる明と暗の世界を垣間見ていたようにも思える。

 また、彼の初監督作品『アルビノ・アリゲーター」に見られるフィルム・ノワールに対する独自の解釈は、『LAコンフィデンシャル」に通じるものがある。彼は前出の「UNCUT」誌でこう語っている。「この映画には『チャイナタウン」へのオマージュがある。 フェイ・ダナウェイがバスルームにいるちょっとした場面だ。私には『チャイナタウン」のなかで、狭いバスルームでの彼女とジャック・ニコルソンのやりとりがとてもセクシーで忘れられない場面になっているんだ」。

 しかしながら同じフィルム・ノワールとはいえ、バーに立てこもった三人組の強盗と人質の男女が生き延びるための葛藤を描く『アルビノ・アリゲーター」には、クールでタフなヒーローも宿命の女も登場しない。舞台となるバーには壁にボギーのポスターが張られているが、 ドラマにそういうヒーローはいない。それゆえにこのドラマでは、たとえば罪は犯したくないが助かりたいというような相反する感情の狭間を微妙に揺れつづける葛藤が複雑に絡み合い、意外な結末に結びつくのだ。そこには、エルロイほど明確ではないものの、 ノワール的な伝統を参照しつつ独自の視点でそれを読み直そうとする姿勢を見ることができる。

 そんなことを踏まえてみると、『LAコンフィデンシャル」におけるスペイシーの役作りというものが非常に興味深く思えてくる。彼はこのように語っている。「まず私は監督に尋ねた、これが1952年のことだったら誰がジャックを演じていただろうかと。彼は迷うことなくディーン・マーティンと答えた。 私はその答えに面食らったが、『リオブラボー』と『走り来る人々』を見て納得がいった。マーティンは虚勢を張っているが、同時に彼が演じるキャラクターには何か非常に不安定なものがあったんだ」(「San Francisco Chronicle」紙98年2月2日号)。 「ジャックに関してはディーン・マーティンに触発されたんだが、実際にはもっと複雑なことをこなしている。ハンフリー・ボガートの映画を全部見て、ディーン・マーティンだったらそれをどう演じるか想像してみたんだ」(前出「Max」誌)。

 『アルビノ・アリゲーター」でボギーのポスターを前にヒーロー不在の微妙な葛藤を演出したスペイシーが、『LAコンフィデンシャル」では役者として、密かにボギーを参照しながらそれをヒロイズムでは割り切れない不安定な人物として表現している。そんな役作りからは、 彼の50年代に対するこだわりと登場人物の影の部分を掘り下げようとする意思が見えてくる。そして実際、50年代の虚飾の世界を優雅に泳いでいるように見えながら、ふと自分に立ち返ったかのような素顔を見せるスペイシーの存在は非常に印象に残る。原作では実際にジャックは暗い秘密を抱えているが、 映画ではそこまで盛り込むことが不可能なためにその部分は彼の演技にすべてが委ねられているといってもいいだろう。また、フィルム・ノワールの伝統からすれば宿命の女は象徴的な存在であるわけだが、この映画ではその立場を担うキム・ベイシンガーが物語の展開とともに象徴から抜けだし、 生身の人間に変貌していくことろが、スペイシーの役作りとも呼応していて実に面白いと思う。

 そしてこれにもう一本の新作『真夜中のサバナ」が加わるとスペイシーが映画に求めているキャラクターがいっそう明確になる。この映画には『LAコンフィデンシャル」とはまた違った意味でやはり『アルビノ・アリゲーター」に通じるものがある。 『アルビノ・アリゲーター」は閉塞的な状況のなかで登場人物たちが一発の銃声をめぐる秘密を抱え込むまでの物語といえるが、『真夜中のサバナ」は逆に、南部の楽園サバナのクリスマスの夜に響いた銃声に隠された真実に向かって物語が展開していくことになる。そしてその真実を胸に秘めているのが、スペイシー扮する骨董商なのだ。

 この『真夜中のサバナ」の原題は「MIDNIGHT IN THE GARDEN OF GOOD AND EVIL」といい、映画のポスターにはサバナの墓地の名物となった天秤を象徴する少女の像が使われている。要するに、善と悪は明確に割り切れるものではなく、微妙なバランスで揺れ動くところに心の闇が見えてくるというわけだ。

 
 
《関連リンク》
『16歳の合衆国』 レビュー ■
『ライフ・オブ・デビッド・ゲイル』 レビュー ■
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