マシュー・ライアン・ホーグ監督の『16歳の合衆国』を観て、筆者の頭に真っ先に思い浮かんできたのは、しばらく前に読んだ『コロンバイン・ハイスクール・ダイアリー』のことだった。
この本は、コロンバイン高校銃乱射事件を起こした二人組の友人のひとりだったブルックス・ブラウンが、現実を直視しようとしない学校側や安易な"完結のストーリー"を作り上げるマスメディア、事件を利用する政治家やキリスト教の伝道師などを批判しつつ、なぜ事件が起きたのか、二人がどんな人生を歩んできたのかを真剣に検証していくノンフィクションである。その導入部でブラウンはこのように書いている。
「多くの人々は、自分の手を汚してまでコロンバインの背後にある本当の理由を究明したくないと思っている。本当の問題だったかもしれないことを受け入れるよりも、その場しのぎの解決を信じるほうが簡単だから」
「ぼくらは、自分自身に目を向けなければいけないんだろう。人間は結局、自らの経験によって形作られる」
この『16歳の合衆国』には、そんな言葉と共鳴する問題意識がある。主人公リーランドは、ごく平凡な16歳の少年だったが、ある日突然、彼の恋人だったベッキーの弟で、障害を抱えるライアンを刺し殺してしまう。逮捕された彼は、矯正施設に送られるが、事件については何も語ろうとはしない。人々が求めるような単純明快な理由など存在しないからだ。彼が口にするのはこんな言葉だ。
「みんなが何を求めているかわかっている。彼らが求めているのは"理由"だ」
「世界の見方は二つある。背後に潜む"哀しみ"を見るか、すべてに目を閉ざすか」
ホーグの問題意識は、様々なかたちでドラマの細部にまで反映されている。たとえば、矯正施設におけるリーランドとアフロヘアの少年との関係だ。映画のなかで具体的に説明されることはないが、施設にいる少年の大半は、リーランドの家があるような中流のサバービアではなく、犯罪が日常化しているインナーシティで生きてきた黒人やヒスパニックである。
そんな少年たちには、リーランドが、悪魔崇拝で人を殺すような異常な存在に見える。だからアフロの少年も、最初は彼と距離を置こうとする。しかし、閉ざされた空間で共同生活を送るうちに、集団のなかで孤立しているリーランドが、人種差別や貧困とは違う絶望や哀しみを背負っていることを感じとり、一対一の関係を築くようになるのだ。
それと同時にこの映画では、問題意識が象徴的な次元へと突き詰められていく。このような題材を扱う場合、加害者や被害者の次に注目されるのは、一般的には双方の家族のはずである。ところがこの映画では、物語が進むに従って、矯正施設の教官パールとベッキーの姉であるジュリーの婚約者アレンの存在が際立つようになる。
売れない作家でもあるパールは最初、自分の本の題材としてリーランドを利用しようとする。しかし、自分の恋人を裏切り、リーランドが見つめてきた哀しみに触れ、彼の父親と直接話をするうちに、傍観者ではいられなくなる。
一方、アレンもまた、ドラッグに溺れるベッキーを救い出し、ジュリーとの未来を失い、車のシートの下から拳銃を見つけるといった出来事のなかで、傍観者ではいられなくなる。そんな彼らが行き着く対照的な結末からは、単に救いやもうひとつの悲劇という表現では片づけられない象徴的な意味が浮かび上がってくる。 |