ヴァン・サントは冒頭で取り上げたブラウンのエピソードに関心を持ち、世界が永遠に変わろうとする時間のなかで、交差する登場人物たちの関係に注目することによって、人物それぞれの意識や内面を描き出そうとする。その人物たちの関係を明確にするために、まずブラウンの本から引用をしておきたい。
「肝心なのは、コロンバインの文化はスポーツ選手たちを崇拝していたってこと。彼らを無条件に賞讃していたってことは、学校にいる多くの"スポーツ馬鹿(ジョックス)"にすごく悪い影響を与えていた」「問題は、学校側の人たちの間では、いじめをするやつらに人気があったってことだ。一方ぼくらは、物事の重要な順序になじんでいないように見えたから、"厄介者"にされた。フットボールをプレーする生徒は、高校でやるべきことをやっている。ちょっと違う格好をして、違うことに夢中になっているぼくらみたいな生徒は、先生たちを神経質にさせた。彼らはぼくたちと心を通わすことになんて興味なかった」
この映画には、登場人物たちの交差が、時間を前後させて、双方、あるいは複数の視点でとらえられる場面が三つある。ひとつは、ジョンが、アレックスとエリックとすれ違う場面だ。この場面は後に二人組の視点から描かれる。ふたつ目は、フットボール選手のネイサンが、ガールフレンドのキャリーに会うために校庭から校舎に入り、ブリタニー、ジョーダン、ニコルの三人組とすれ違う場面。この場面は後に彼女たちの視点から描かれる。三つ目は、ひとつ目の場面と繋がっている。先ほど、ジョンが二人組とすれ違う前に、写真部のイーライに写真を撮られると書いたが、この場面は後に、イーライ、そして彼らの横をすり抜けるミシェルの視点から描かれる。
この人物たちの交差は、ドラマのなかに緊張感を生み出す。ネイサンとキャリーは外出許可をもらうが、その時点では惨劇が起こるまでに彼らが外出するのかどうかはわからない。ジョンと交差したイーライとミシェルは、それぞれに図書室に向かい、その後で外でジョンとすれ違うアレックスとエリックも図書館の方向に進む。そこには、彼らの運命の分岐点がある。
しかしこうした交差には、別のもっと重要な意味がある。それは見ることと、見られることの関係だ。たとえば、ふたつ目の場面における視線は、わかりやすいだろう。フットボール選手のネイサンは、学校で注目される存在であり、三人組とすれ違うときも彼女たちの視線を意識している。彼女たちも、彼がジョックスの代表だから見つめ、その噂話をする。この映画には、視線や表層を意識させるエピソードが散りばめられている。ダイエットに余念がない三人組は、カフェテリアで食事を終えるとトイレに向かい、そろって食べたものを吐き出す。アケイディアが参加している"同性・異性愛会"では、外見だけでゲイを判別できるかという議論が行われている。ミシェルは体育の授業で肌を晒すのを拒み、更衣室では三人組から馬鹿にされる。
写真部のイーライが持つカメラも、視線をめぐって多くのことを物語る。校内を移動する彼は、多くの生徒たちと挨拶をかわす。おそらくその生徒たちは、彼の被写体になったことがあるはずだ。その一方で、間違いなく被写体になっていない人物がいる。まず、ミシェルだ。イーライがジョンの写真を撮ろうとするところに遭遇した彼女は、撮影の邪魔になっているわけでもないのに、急ぎ足で彼らの脇をすり抜け、遠ざかろうとする。それから、アレックスとエリックも被写体になっていないだろう。映画の終盤、武装した彼らが図書室に現れたとき、イーライは反射的にアレックスにカメラを向け、シャッターを切る。そのときアレックスは、一瞬きょとんとする。それは、いじめ以外ではいつも無視されている彼が、学校のなかで正面からまともな視線に晒された驚きを表わしている。
さらに、ジョンとイーライ、ジョンとアレックスやエリックとの関係の違いも印象に残る。イーライは、ジョンの明の部分を見て、彼の写真を撮っている。一方、二人組は、アル中の父親に振り回される彼の暗の部分を見て、「中に入るな」と警告する。ジョンは、学校で孤立はしていないが、彼らの気持ちが理解できる数少ない人間のひとりでもあるのだ。
この映画には、ジョックスに対する特別待遇やいじめなどを具体的に示すようなドラマはほとんどない。ヴァン・サントは、そんなドラマではなく、見ることと見られることの関係を掘り下げることによって、彼らの意識や内面を浮き彫りにしてしまう。視線で存在を否定されることもまた暴力なのだ。
この映画の冒頭には、青空が映し出される。それはいつもと変わらない日常を表わしているように見えるかもしれない。しかし、その空に響いているのが、フットボールの練習をする連中が出す声であることを無視するわけにはいかない。それは、ジョックスや彼らを見つめる女子にとっては、なんでもない日常なのだろう。しかし、存在を否定されている人間たちには、耐え難い日常なのだ。ミシェルは、あえて自分の存在を消し去ることで、それを乗り越えようとする。
しかし、アレックスやエリックは、日常の暴力に対して暴力で答える道を選ぶ。この原稿の冒頭の方で筆者は、「いつもと変わらないように見えた一日が惨劇に変わる」と書いたが、もちろんこの表現は正しくない。この映画の衝撃は、日常に潜む暴力と銃乱射という暴力を対等なものとして描いているところにあるからだ。 |