社会学者ジョージ・リッツアの著書『マクドナルド化する社会』では、ファストフード・レストランの諸原理に代表される徹底した合理化=マクドナルド化が世界に広がる状況について、細かく検証されている。効率性、計算可能性、予測可能性、制御を特徴とするマクドナルド化は、確かに生活を便利にし、人々を引きつけ、多大な利益を生み出した。しかし同時に、消費者と従業員の脱人間化、コミュニケーションや個人の創造性の排除、均質化といった多くの非合理的な結果も生み出している。
平山秀幸監督の『OUT』とニック・カサヴェテス監督の『ジョンQ―最後の決断―』は、そのマクドナルド化、あるいは徹底した合理化が鍵を握る映画だ。
『OUT』の主人公である4人の女たちは、弁当工場でパートとして働いている。彼女たちは、深夜から朝までベルトコンベアと向き合い、分業化された弁当作りの単調な作業をひたすら繰り返す。『マクドナルド化する社会』によれば、こうした作業ラインは自動車産業のなかで開拓され、マクドナルド化の先駆けとなったという。そこに非合理性があることは容易に察せられるが、リッツアはこのように説明している。「人間的な作業能力を発揮するかわりに、人びとは人間性を否定し、ロボットのように振る舞うことを強制される。人びとは作業のなかで自分自身を表現することができない」
それは主人公たちにとって辛い作業であるはずだ。しかし、仕事を離れた日常とどちらが辛いかは微妙なところだ。彼女たちの日常には、リストラや引きこもりによる家族の崩壊、痴呆症の義母の介護や生活苦、カード破産、ギャンブルによる浪費や家庭内暴力などが待っているからだ。人間性を否定していられる時間は、ある種の救いになっているようにすら見える。人間としてそんな日常の現実とずっと向き合っていれば、どこかで爆発しかねない。実際、主人公のひとりは衝動的に夫を殺害してしまい、それが、彼女たちが一線を越えるきっかけとなる。
彼女たちが何らかのかたちで解放されるということは、普通に考えるなら辛い日常と仕事から逃れることを意味する。確かに彼女たちも最後には逃避行に出る。しかしこの映画で最も興味深いのは、解放の糸口が作業ラインを日常に持ち込むことから見えてくるところだ。平凡な家庭の風呂場が突如、作業場に変貌し、彼女たちは、白い作業着と帽子のかわりに水着やゴミ袋、水中メガネなどを身につけ、脱人間化された作業に励む。それは最初はあくまで金のためだが、やがて奇妙な解放感と絆が生まれる。そこには、合理化をあっさりと飲み込み、逆襲に出たかのような逞しさと清々しさがある。
一方、『ジョンQ』の背景にあるのは、医療制度のマクドナルド化だといえる。ほとんどの先進諸国には国民皆保険かそれに近い医療保障制度があるのに対して、いまのところアメリカにはそれがない。アメリカの医療の根本には、まず何よりも医学の進歩、向上に力を注ぎ、その結果である高い水準の恩恵にあずかれるかどうかは個人の自助努力次第という考え方がある。
しかしもちろん、そうした医師や病院主導の体制では、医療費がどこまでも高騰し、医療サービスに対する消費者の不信や企業雇用主の不満が広がるため、保険会社のような第三者機関がその間に入り、医療サービスをチェックし、医療費を抑えるような制度が導入された。それは消費者を守る制度になるはずだったが、現実には消費者に自由があるとはいえない。保険会社は企業と契約を結び、利益が見込めない個人は振り落とされていく。だから、4千万とも5千万ともいわれる無保険者が存在することになる。
『マクドナルド化する社会』には、アメリカの医療についてこんな記述がある。「外部機関はうなぎのぼりの医療経費に関心を強めている。支払い対象と支払い額を制限することでこの問題に対処することにした第三者支払機関は、ある種の治療や入院に支払いを拒絶したり、定額しか支払わなかったりする。金額や時間などの数量に関心が集中すると、危険なことだが、医療関係者が患者のケアの質を重視しなくなるかもしれない」
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