■■カウリスマキ“敗者三部作”とフィンランド社会の関係■■
アキ・カウリスマキの新作『街のあかり』は、『浮き雲』、『過去のない男』に続く“敗者三部作”の最終章になる。この三部作とフィンランド社会には、深い結びつきがある。かつてカウリスマキは『浮き雲』について、このように語っていた。
「『浮き雲』を作ろうとしていたとき、フィンランドでは失業率が22%にも達し、友人たちも破産の憂き目にあっていました。たくさんの人たちが仕事を失い、国中が絶望に覆われている状況のなかで、わたしはこの問題を見つめる映画を作りたいと思ったのです」
90年代前半、フィンランドは、重要な貿易相手国だったソ連の崩壊とバブルの崩壊によって、極めて深刻な経済危機に陥った。『ザ・フィンランド・システム』には、その状況が以下のように記述されている。
「91年から93年までの3年間でGDPが約10%減少し、1990年には約3%であった失業率が1994年には約17%へと跳ね上がった。フィンランドという国は倒産するのではないか?という噂が国際市場でささやかれたのもこの時期である」
『浮き雲』に登場する夫婦は、そんな状況のなかで失業の憂き目に逢うが、誇りと信頼によって苦境を乗り越えていく。
しかしその後、フィンランド経済は、奇跡的な復活を遂げる。政府は痛みをともなう改革を積極的に推し進め、危機を乗り切った。さらにハイテク企業の育成が功を奏し、グローバリゼーションの波に乗ってインターナショナルなベンチャー企業が成長し、経済を牽引していく。
『過去のない男』は、そんなフィンランドの変貌と再生に対するカウリスマキの返答と見ることもできるだろう。この映画では、記憶を失った男が、ゼロから新たな人生を歩み出すことになるからだ。
■■『街のあかり』――グローバリゼーションと男女の深い溝■■
それでは『街のあかり』はといえば、その背景には、これまでにない繁栄を享受する社会がある。主人公のコイスティネンも、生計に関する限り苦境に立たされているわけではない。彼は、警備会社に勤務する夜警で、それなりに蓄えもある。
しかし彼には、家族も友人も恋人もなく、同僚たちからも疎外され、愛情に飢えている。そして、そんな孤独な男に、マフィアのボスが目をつける。コイスティネンは、ボスの情婦ミルヤに誘惑され、利用され、宝石強盗の罪を擦りつけられ、仕事も自由も夢も奪われていく。
そんなドラマには、現代のフィンランド社会を垣間見るようなエピソードが盛り込まれている。寂しさに耐えかねたコイスティネンは、貯金をはたいて職業訓練所で経営を学び、会社を起こして自分を疎外する会社や同僚を見返そうとする。しかし、融資を受けるために銀行を訪れた彼は、銀行員からクズ扱いされる。一方、彼を罠にはめていくマフィアのボスは、計画を実行するためにロシア人たちと連絡を取る。繁栄の陰には、そうしたパイプも生まれるのだろう。
しかしこの映画で最も際立つのは、コイスティネンとミルヤの関係だ。ドラマのポイントとなる社会状況は、この男女の関係に集約されていく。冷酷なミルヤは、どこまでもコイスティネンを欺き続け、彼は、女の裏切りに気づいても彼女を受け入れていく。カウリスマキは、これまでにない冷徹な眼差しで、彼らの関係を浮き彫りにしていく。二人の間にある溝は深く、決して埋まることがない。
彼らの関係は、まさにグローバリゼーションの現実を象徴している。『グローバル化と社会的排除』ではそんな現実が以下のように表現されている。
「脆弱さ<vulnerability>と多くの人々の排除は、グローバル化によって提供される新しい経済的機会と手を取り合って進行しており、それは、広く認識されている勝者と敗者との分岐を拡大していく傾向にある。このような過程は分裂した社会を生みだしており、そこでは紛争がますます広がっていきつつある。というのも、共有された価値や共通の利害関心はいっそう乏しくなっているからである」
コイスティネンは絶望の淵に立たされるが、最後に救いが訪れる。孤独ゆえに勝者と敗者の図式に取り込まれ、夢を追っていた彼は、人の温もりに触れることでその呪縛から解き放たれていくのだ。 |