浮き雲
Drifting Clouds  Kauas pilvet karkaavat
(1996) on IMDb


1996年/フィンランド/カラー/96分/ヴィスタ
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(初出:『浮き雲』劇場用パンフレット、若干の加筆)

 

 

楽園はここにある

 

 アキ・カウリスマキの監督作には、1本1本が独立、あるいは完結した作品であると同時に、、すべてがひとつの世界、ひとつの長い長い物語のように思えるところがある。それは、彼が、カウリスマキ・ファミリーともいうべきスタッフ、キャストに支えられて映画を作りつづけていために、新作を観るたびに親近感、既視感を覚えるということとはちょっと違う。

 カウリスマキは、映画的な記憶を旅するかのように、作品ごとに様々なスタイルを引用してきた。フィルム・ノワールの非情な眼差しと乾いたロマンティシズム、演劇性を徹底的に排したロベール・ブレッソン的な表現、サイレントのシチュエーション・コメディ、マイクル・パウエルを思わせるシュールな色のコントラスト、情緒と哀歓に満ちたルネ・クレール的なドラマなど、そのスタイルは実にヴァラエティに富んでいる。

 作品ごとにそれだけスタイルが変われば、作品相互の繋がりが希薄になりそうなものだが、カウリスマキの手にかかると、そうした多様なスタイルが最終的には彼独自の詩的リアリズムにしっかりとまとめあげられてしまう。もちろんそれは、カウリスマキがどんなスタイルでも吸収し、自分の映像言語として語る能力を持った監督であることを意味するが、それだけではなく、彼の作品はもっと深いところで共鳴している。

 筆者には、カウリスマキが常に作品を通して同じ問いかけを繰り返し、その答を探しつづけているように思える。それゆえに、どんなスタイルを取り込もうとも、そのテーマを突き詰めていくうちに彼ならではのスタイルになり、全体がひとつの世界のように見えてくるのではないだろうか。

 そういう意味では、カウリスマキの世界/物語は、彼が映画を作りつづける限り延々とつづいていくことになるわけだが、この新作『浮き雲』は、そこにひとつの区切りをつける作品であると思う。この映画は、いつもながらのカウリスマキの世界に見えながら、この世界/物語に対する彼のスタンスに明確な違いを感じる。

 『浮き雲』では、『真夜中の虹』の主人公が炭坑の閉山によって、『コントラクト・キラー』の主人公が役所の民営化によって職を失ったように、共働きで慎ましく暮らす夫婦が、失業という災難に見舞われる。そして、同じように不条理で苛酷な現実との闘いが、カウリスマキならではのユニークなタッチで綴られていくことになる。

 ではどこが違うのかといえば、まず印象的なのがラストのハッピーエンドである。筆者が知る限り、このようなハッピーエンドはこれまでなかったと思う。たとえば、『真夜中の虹』のラストは、ハッピーエンドだと思われているかもしれない。しかし、メキシコ行きの貨物船に乗り込む主人公と彼の家族になった母子の行く手に果たして明るい未来は待っているのだろうか? その答は、観客に委ねられているわけだが、カウリスマキが紡ぐ物語をたどっていくと、彼らの未来を楽観視することはできなくなる。

 カウリスマキが自分の国を離れて撮った『コントラクト・キラー』や『ラヴィ・ド・ボエーム』といった作品を思いだしてもらいたい。『コントラクト・キラー』の主人公は、ロンドンに暮らすフランス人で、15年も勤務しながら外国人という理由で首にされ、『ラヴィ・ド・ボエーム』の主人公である売れない画家は、パリに暮らすリトアニア人であり、ビザのない不法滞在者として国外退去を命じられるというように、そこからは、希望を外国に求めた人物たちの厳しい現実が浮かび上がってくるのだ。ちなみに、『コントラクト・キラー』のラストも、ひとつのハッピーエンドではあるが、主人公と花売りの恋人の未来はまったくの未知数というべきだろう。


◆スタッフ◆

監督/脚本/製作/編集   アキ・カウリスマキ
Aki Kaurismaki
撮影 ティモ・サルミネン
Timo Salminen

◆キャスト◆

イロナ   カティ・オウティネン
Kati Outinen
ローリ カリ・ヴァーナネン
Kari Vaananen
スヨホルム夫人 エリナ・サロ
Elina Salo
メラルティン サカリ・クオスマネン
Sakari Kuosmanen
ラユネン マルッキイ・ペルトラ
Markku Peltola
フォルストロム マッティ・オンニスマー
Matti Onnismaa
写真の少年 マッティ・ペロンパー
Matti Pellompaa

(配給:ユーロスペース)
 
 
 
 

 カルリスマキの映画を、このようにひとつの流れとしてたどってみると、彼が作品を通して追い求めるものも自ずと明らかになってくる。彼の映画には、一方でいつもどこかに楽園願望が見え隠れしている。それを象徴しているのが、『真夜中の虹』の最後に流れる<虹の彼方に>であり、『マッチ工場の少女』のダンスホールの場面で、ラテン・バンドの歌から浮かび上がる“海原の遥か彼方にあるという心配も苦労もない幸福の国”である。

 しかし、彼の映画の登場人物たちにとって、そんな楽園は限りなく遠いところにある。彼らの楽園願望は、現実によって打ち砕かれていく。そんな現実の象徴といえるのが、『マッチ工場の少女』のなかに挿入される天安門事件のニュースだろう。人民のための国と軍隊が人民に向かって発砲する。それは、楽園の喪失以外のなにものでもない。

 カウリスマキは、そんな楽園願望と現実の狭間で悪戦苦闘する人々を優しく見つめ、彼らのような人間が救われる世界がどこにあるのか、その答を探しつづける。それだけに、この『浮き雲』のハッピーエンドは印象深いものがあるのだが、これは決して単純なハッピーエンドではない。

 この映画では、ヒロインのイロナが、"ドゥブロヴニク"の経営者だった夫人と再会し、グラスを傾けながら話をするところから、ドラマに不思議な解放感が広がっていく。アキの映画を観ていると、彼がブルーという色に特別な魅力を感じていることがわかるが、この映画でも、イロナと夫人が、ブルーが印象的な南国風カクテルを飲み干したところから、ドラマは別の世界へと分け入っていく。これをカウリスマキ自身の発言に照らすなら、デ・シーカとキャプラの融合ということになりそうだが、そんな極端な組み合わせが驚くほど自然に受け入れられてしまうのは、彼ががこれまでの詩的リアリズムから一歩踏み出しているからだろう。

 この映画に描かれる失業は、『真夜中の虹』や『コントラクト・キラー』とは明らかに意味が違う。カウリスマキが見つめているのは、必ずしも冷酷な現実に対する悲しみやサバイバルの苦闘といったことではなく、この夫婦の労働者としての誇りと信頼である。

 市電の運転手をクビになった夫のラウリには、失業手当などに依存するような生活は受け入れがたい。聴覚に異常が見つかったために職と免許証を失い、卒倒してしまうのは、自分の腕で社会の役にたってきた労働者が、その存在意義を失ってしまったことにショックを受けるからだ。一方、イロナは、皿洗い機しか求めていなかったような最悪の店で働くことを余儀なくされるが、賃金が増えるわけでもないのに、ひとりで何役もこなして少しでもまともな店らしいものにしようと奮闘する。なぜなら、斜陽だったとはいえ名門レストランで皿洗いから給仕長にまでなった彼女の誇りが、ただの機械同様の存在に成り下がることを許さないからだ。

 そして、そんな誇りと信頼は、世界を変えていく。主人公の夫婦が浮き雲を見上げるこの映画のラスト・シーンは本当に素晴らしい。『浮き雲』は、カウリスマキが、現実に対する彼の理念を鮮明にする映画だといえる。イロナの“レストラン・ワーク”は、工場のそばに建ち、そこには労働者たちが集う。このレストランは、誇りを持った労働者たちが救われる世界であり、長い長い物語のなかでカウリスマキが見出した楽園のイメージなのである。


(upload:2006/06/17)
 
 
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