アキ・カウリスマキの監督作には、1本1本が独立、あるいは完結した作品であると同時に、、すべてがひとつの世界、ひとつの長い長い物語のように思えるところがある。それは、彼が、カウリスマキ・ファミリーともいうべきスタッフ、キャストに支えられて映画を作りつづけていために、新作を観るたびに親近感、既視感を覚えるということとはちょっと違う。
カウリスマキは、映画的な記憶を旅するかのように、作品ごとに様々なスタイルを引用してきた。フィルム・ノワールの非情な眼差しと乾いたロマンティシズム、演劇性を徹底的に排したロベール・ブレッソン的な表現、サイレントのシチュエーション・コメディ、マイクル・パウエルを思わせるシュールな色のコントラスト、情緒と哀歓に満ちたルネ・クレール的なドラマなど、そのスタイルは実にヴァラエティに富んでいる。
作品ごとにそれだけスタイルが変われば、作品相互の繋がりが希薄になりそうなものだが、カウリスマキの手にかかると、そうした多様なスタイルが最終的には彼独自の詩的リアリズムにしっかりとまとめあげられてしまう。もちろんそれは、カウリスマキがどんなスタイルでも吸収し、自分の映像言語として語る能力を持った監督であることを意味するが、それだけではなく、彼の作品はもっと深いところで共鳴している。
筆者には、カウリスマキが常に作品を通して同じ問いかけを繰り返し、その答を探しつづけているように思える。それゆえに、どんなスタイルを取り込もうとも、そのテーマを突き詰めていくうちに彼ならではのスタイルになり、全体がひとつの世界のように見えてくるのではないだろうか。
そういう意味では、カウリスマキの世界/物語は、彼が映画を作りつづける限り延々とつづいていくことになるわけだが、この新作『浮き雲』は、そこにひとつの区切りをつける作品であると思う。この映画は、いつもながらのカウリスマキの世界に見えながら、この世界/物語に対する彼のスタンスに明確な違いを感じる。
『浮き雲』では、『真夜中の虹』の主人公が炭坑の閉山によって、『コントラクト・キラー』の主人公が役所の民営化によって職を失ったように、共働きで慎ましく暮らす夫婦が、失業という災難に見舞われる。そして、同じように不条理で苛酷な現実との闘いが、カウリスマキならではのユニークなタッチで綴られていくことになる。
ではどこが違うのかといえば、まず印象的なのがラストのハッピーエンドである。筆者が知る限り、このようなハッピーエンドはこれまでなかったと思う。たとえば、『真夜中の虹』のラストは、ハッピーエンドだと思われているかもしれない。しかし、メキシコ行きの貨物船に乗り込む主人公と彼の家族になった母子の行く手に果たして明るい未来は待っているのだろうか?
その答は、観客に委ねられているわけだが、カウリスマキが紡ぐ物語をたどっていくと、彼らの未来を楽観視することはできなくなる。
カウリスマキが自分の国を離れて撮った『コントラクト・キラー』や『ラヴィ・ド・ボエーム』といった作品を思いだしてもらいたい。『コントラクト・キラー』の主人公は、ロンドンに暮らすフランス人で、15年も勤務しながら外国人という理由で首にされ、『ラヴィ・ド・ボエーム』の主人公である売れない画家は、パリに暮らすリトアニア人であり、ビザのない不法滞在者として国外退去を命じられるというように、そこからは、希望を外国に求めた人物たちの厳しい現実が浮かび上がってくるのだ。ちなみに、『コントラクト・キラー』のラストも、ひとつのハッピーエンドではあるが、主人公と花売りの恋人の未来はまったくの未知数というべきだろう。 |