アキ・カウリスマキの新作『過去のない男』の主人公には名前がない。列車でヘルシンキにたどり着いた主人公は、いきなり暴漢に襲われて重傷を負い、記憶を失ってしまうからだ。過去を失った男は、港湾地区に放置されたコンテナでぎりぎりの生活を送る一家に助けられ、救世軍の活動に従事する女イルマに出会い、朽ち果てたコンテナを借り、ゼロから再出発する。
この映画でまず意外だったのは、カウリスマキが、『浮き雲』に始まる三部作の二作目としてこの作品を撮ったということだ。『浮き雲』は彼の作品のなかでは珍しく、ドラマが明確なハッピーエンドを迎える映画だった。以前、カウリスマキにインタビューしたとき(アキ・カウリスマキ・インタビュー)、彼はこう語っていた。
「『浮き雲』を作ろうとしていたとき、フィンランドでは失業率が22%にも達し、友人たちも破産の憂き目にあっていました。たくさんの人たちが仕事を失い、国中が絶望に覆われている状況のなかで、わたしはこの問題を見つめる映画を作りたいと思ったのです。結末については、ハッピーエンドにするしかありませんでした。これはわたしが作った唯一のソーシャル・セラピー的な映画です。ただ本当は結末をもっと非情なものにしたいと思っていたので、納得がいかないという気持ちもありますが…」
この言葉からわかるように、当初『浮き雲』は、カウリスマキにとって例外的な作品だった。しかもその後、フィンランドは深刻な経済危機から確実に立ち直りつつある。にもかかわらず、『浮き雲』に始まる三部作を作ろうとするところに、彼の変化を見ることができるのだ。
『過去のない男』は、『浮き雲』と同じようにハッピーエンドを迎えるが、この2作品が三部作へと発展することによって、ハッピーエンドの意味は変わってくる。その意味は、この2作品を、かつてカウリスマキが作り上げた"敗者三部作"と対比してみることで明確になる。
『パラダイスの夕暮れ』『真夜中の虹』『マッチ工場の少女』からなる敗者三部作では、厳しい現実のなかで逆境に追いやられた主人公たちは、どこかにある楽園を夢見て、旅立っていく。おそらく彼らは現実に楽園に至ることはないが、それでも常に彼らのなかには楽園願望があり、ここではないどこかに向かおうとする。
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