この映画は『浮き雲』のようにハッピーエンドにはならない。しかし生き残ったマルヤはどこか未知数の世界へとに旅立ってしまうのではなく、自分のルーツへと戻っていくのである。それはカウリスマキの映画における"楽園"の変化を意味している。
彼の以前の映画では楽園はきっとどこかにあるはずのものだった。その楽園は、彼の映画における時代や時間の扱い方と結びつきがあるのではないかと思う。
「時代についてはいつもタイムレスな設定をしようという気持ちがあります。たとえば普通は、70年代と50年代の家具を組み合わせるようなことはしないと思いますが、わたしは同じ画面のなかにいつも異なる時代を混在させています。
そして最終的には50年代へと戻っていく傾向があります。わたしは実際にその時代を体験したわけではありませんが、とても好きな時代なのです。誰もが経済的には貧しかったが、とてもイノセントで、もっとお互いに助け合い、幸福な時代でした」
タイムレスなカウリスマキの世界のなかで、きっとどこかにあるはずの楽園は、この失われた幸福な時代に繋がっている。だからこそ登場人物たちが胸に秘めた楽園への願望は叶えられず、彼らは未知数の世界へと旅立つ。
しかし、『浮き雲』の夫婦は自分たちの足元に楽園を見出し、『白い花びら』の物語は、農村という楽園から始まり、そこに戻っていくことになる。
この『白い花びら』の物語は、非常にシンプルであり、通俗的にすら見えるが、筆者には深い寓意が込められているように思える。そのヒントになるのは、カウリスマキのこんな言葉だ。
「この映画の最も重要なポイントは、ラストの少し前の場面にあります。ゴミ捨て場に向かう前に、ユハはマルヤと赤ん坊をタクシーに乗せます。その時、彼はすべてを許します。
この場面にはブレッソンやカトリック的な意味での慈悲の心があります。わたしとしては、この場面はもっと非情なものにするつもりでしたが、カメラが回っているうちに、すべてが許されなければならないと思ったのです」
この映画は冒頭からもうひとつの物語が見えてくる。ユハとマルヤはバイクに乗って市場にキャベツを売りに行く。農業を営むこの夫婦にとって野菜を売ることは日常的な行為であるはずだが、この映画は、
まるでその行為が生まれて初めての経験であるかのように描いている。彼らのキャベツは飛ぶように売れ、箱にお金がたまっていく。そのお金をとらえたショットを見るとき、このドラマが聖書の引用になっていることに気づく。
イノセントな夫婦は静かな楽園で子供のように幸福に暮らしている。しかしキャベツをお金にかえる瞬間、そこに消費社会における原罪が暗示され、彼らは無意識のうちに堕落への一歩を踏みだしている。
そして気づいたときにはマルヤのように、人間そのものが消費されているのである。
このもうひとつの物語は、サイレントで描かれるからこそ見えてくる寓話である。カウリスマキはこれまで、ブレッソン、クレール、キャプラ、デ・シーカ、ラングなど作品ごとに様々なスタイルを取り込んできた。
そんなふうに映画的な記憶を自在にたぐることによって、できるだけ台詞に依存することなく物語を語る寡黙なスタイルを作りあげてきたのだ。そういう意味では、『白い花びら』はひとつの集大成、結晶といえる。
「そうあってくれればいいと思います。わたしには映画の本質を追求していくうえで、指針となるような完璧な映画のかたちというものがあります。ふたりの人物が壁の前に立っているとします。
まずそのひとりが画面から姿を消します。壁ともうひとりの人物が残り、そこに影があります。次にもうひとりの人物がいなくなる。そこにも影がある。次に壁を取り去る。そこにも影がある。次に照明を落としてしまう。
そこにも影が残る。それが映画のひとつの本質なのです。『白い花びら』の場合には、もはや映画そのものを取り去る以外には何も残らないところまで行きました。あれ以上先には行けないということです」
カウリスマキはこの映画で、台詞に依存することなく、驚くべき感性で映像と物語を絡み合わせ、人間と映画の本質を掘り下げていると思う。物語はイノセントな主人公たちが消費社会のなかに引き込まれ、
堕落していく過程を寓話的に描き、映像はそんな展開に呼応するように、20〜30年代のメロドラマから50年代のフィルム・ノワールへと変化していく。彼はこの映画で、消費社会と映画の歴史をひもとき、
異様な説得力で人間性が失われた現代という時代を浮き彫りにしてしまう。そして、人間的な愛情ゆえに自分を犠牲にするユハと彼の慈悲によってルーツに戻っていくマルヤの姿に、人間性回復への希望を託すのである。
かつて根無し草だったカウリスマキは、いまどこかに確実に根を下ろそうとしている。彼が根を下ろすのは、必ずしもポルトガルという具体的な場所であるとは限らないだろう。場所ではない内面的な世界のなかで、根を下ろしていくということもありうるからだ。
「わたしはこれまで、文学や心理的なドラマからロケンロールまでいろいろな映画を作ってきました。そこに登場する人物たちは、わたしの若い頃の記憶がもとになっています。建築作業員や皿洗いなど、
いろんな仕事をしたときの体験をもとに、人物を作りあげているということです。しかし20年間も映画の世界にいたおかげで、ストリートは遠いものになり、人々を観察することができなくなりました。
いまでは外から吸収したもので物語を作るのではなく、何もないところから作りあげているという気がします。一般的にいえば、次回作は、ガンアクションやSFを撮るのがノーマルなのかもしれませんが、幸運にもわたしはノーマルではありません。
だからこれからも人間の本質を見つめる映画を作っていきたいと思います」
このインタビューの最初に、筆者が『白い花びら』に込められた象徴的なイメージについて尋ねたとき、カウリスマキはこんなふうに答えた。
「ルイス・ブニュエルにならってお答えしましょう。わたしの映画には象徴主義というものはありません。しかし、ブニュエルはとんでもない嘘つきでしたが(笑)」
そしてインタビューの最後に、筆者は彼の映画によく出てくるアヒルのオモチャの意味について尋ねてみた。
「意味があるのかもしれないが、自分ではわかりません。ダリやピカソが自分の作品に入れるサインみたいなものです。他の答え方をすると、またフロイト的な話になりそうなのでやめておきます(笑)」
いかにも台詞に依存することなく、映像で語りきろうとするカウリスマキらしい言葉である。 |