それは、ダム建設によって破壊された自然の復讐のようにも見える。少年時代に圭が捕らえた亀が自然の象徴のように出現し、圭が超越的な存在に変貌するからだ。しかし、圭と同化した平山の行動は、亀の死だけではなく、木箱に納められたそれが自然から切り離されたものであることを明らかにする。この映画は、根を持たない妄念が具現する超越者と世界の間に生じる激しい軋み描き出す。
そんな独自の視点は、エンタテインメントを意識した作品でも失われていない。『ラザロ』で怪物になっていくマユミは、グローバリゼーションによってシャッター街と化した商店街に宿る不可視のものを、あるいは、マユミが妹のナオコの絵を携えて故郷を離れることを踏まえるなら、悲劇の元凶である大型店舗に勤める彼女の恋人・梶川と対立して殺害されたナオコの怨念を、可視化するように見える。
しかし、マユミは、ナオコが梶川から自分が成功するための金を脅し取ろうとしていたことを知らない。さらに怪物マユミの行動も、復讐とはいいがたい。ひたすら愛を否定しようとする彼女は、ナオコが色仕掛けで梶川を騙したように資産家の息子たちをたぶらかし、梶川が自分を手にかけたように自分に好意を寄せる刑事を手にかける。怪物となったマユミもまた、土地や家族から切り離され、格差や金に囚われ、世界との間に激しい軋みを生み出す。そこには、社会派エンタテインメントといわれるような作品とは決定的に異なる視点がある。
■■土地や家族に繋がる情念と切り離され肥大化する情念■■
そして、『行旅死亡人』では、不可視のものがより巧妙に可視化されていく。友人のアスカとともに病院を訪れたミサキが再会するのは、前に勤務していた出版社の先輩・吉村靖子だ。ミサキは、もうひとりのミサキである靖子の部屋で、大切なものと思われる胡桃の殻のアクセサリーを見つけ出す。
この物語の根底には、弱者として切り捨てられ、胡桃農園を失った農家の悲劇があり、アクセサリーには不可視のものが宿り、やがてある種の教祖のような経営者の存在とも結びついていく。
しかし、ミサキ自身が不可視のものを可視化するわけではない。この映画では、橋の上に立つ女のイメージが印象に残る。ミサキが靖子の住所を訪ねると、そこには別人の吉村靖子が暮らしている。本物の靖子は、ミサキが去った後で自分の名前を使っていた人物のことを思い出し、橋の上でミサキに追いつき、そこでアクセサリーを手がかりに女の人生の断片が可視化される。長野の小諸で手がかりを失い、陸橋の上に佇むミサキとアスカは、雑誌のなかにアクセサリーと女を見出す。
こうした可視化は、かつて女が渓谷にかかる橋の上で不可視の存在になったことに呼応している。対になったアクセサリーはそのときにばらけ、対極の情念を宿していく。一方は、土地や家族と結びついたままその存在の気配を消し去り、深く静かに潜行する。そしてもう一方は、土地や家族と切り離され、歪んだ社会のなかで肥大化し、世界を侵食しつつある。
この映画のラストでは、ミサキとアスカが陸橋のようにも見える場所に立っている。アスカは執筆が進んでいるか尋ねるが、ミサキの答えは歯切れがよいとはいえない。映画は不可視なものを可視化してみせたが、ミサキは謎を解いただけで、可視化できるとは限らない。彼女たち、そして私たちは、そんな不可視のものに取り囲まれて日常を生きているのかもしれない。 |