行旅死亡人
The Faceless Dead  Koryo-shibonin
(2009) on IMDb


百年の絶唱――――――――― 1998年/日本/カラー/87分/8mm
ラザロ‐LAZARUS‐―――――― 2007年/日本/カラー/201分/DVCAM
行旅死亡人――――――――― 2009年/日本/カラー/106分/デジタル
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(初出:「キネマ旬報」2009年11月上旬号、若干の加筆)

 

 

存在の気配を消し去り、深く静かに潜行する情念
歪んだ社会の中で肥大化し、世界を侵食する情念

 

 井土紀州監督の新作『行旅死亡人』の主人公・滝川ミサキは、ノンフィクション作家を目指すものの、これといった題材を見出せずにスーパーでアルバイトをしている。ある日そんな彼女に奇妙な電話がかかってくる。「滝川ミサキさんが倒れ、病院に搬送されました」。ミサキは病院で意外な人物と再会する。

 タイトルの“行旅死亡人”とは、「飢え、寒さ、病気もしくは自殺や他殺と推定される原因で、氏名や住所、本籍地など判明せず、遺体の引き取り手もいない死者をさす」という。ミサキが知人だと思っていた人物は、やがて息を引き取り、行旅死亡人となる。なぜ彼女は他人の名前で生きなければならなかったのか。真相究明に乗り出したミサキは、ある苛酷な人生と向き合うことになる。

 井土監督はプレスに寄せたコメントのなかで、前作の『ラザロ‐LAZARUS‐』からエンタテインメント性を意識するようになり、この新作では、「題材は重いけれど、それをきっちりエンタテインメントとして押し出したいと思って作りました」と語っている。

■■不可視のものをいかに可視化するか■■

 『ラザロ』と新作は、社会問題を扱うと同時に、メロドラマやミステリーのかたちをなしている。しかし、井土流のエンタテインメントは、それらを単純に両立させるだけのものではない。カルトムービーとして支持される『百年の絶唱』(1998)とこの二作品を対比してみれば、不可視のものをいかに可視化するかがポイントになっていることがわかるだろう。それは、封じ込められた情念がどのように解き放たれるかということでもある。

 『百年の絶唱』の物語の根底には、ダム建設による故郷の喪失という悲劇がある。そんな過去を背負う男・圭の怨念は、不可視のものとして彼が所有していたレコードプレイヤーやLPに宿っている。そして、それらを引き取った平山に乗り移り、二人が同化することによって可視化され、情念が解き放たれ、現実的な時空や物語の枠組みが突き崩されていく。


―百年の絶唱―

 Hyakunen no zessho
(1998) on IMDb


◆スタッフ◆
 
監督/脚本   井土紀州
撮影 西原多朱
製作 吉岡文平、中澤純子
プロデューサー 松岡亮

◆キャスト◆

平山   平山寛
直美 葉月螢
久米 佐野和宏
失踪した男 坪田鉄矢
歌う女 加藤美幸
 
 
―ラザロ‐LAZARUS‐―

※スタッフ、キャストは
『ラザロ‐LAZARUS‐』レビューを参照のこと
 
―行旅死亡人―

◆スタッフ◆
 
監督/脚本   井土紀州
撮影/照明 伊藤学
音楽 安川午朗
プロデューサー 沼口直人、吉川文平

◆キャスト◆

滝川ミサキ   藤党海
丸山アスカ 阿久沢麗加
韮崎耕平 たなかがん
坂上 小田篤
神永史郎 木村聡
柏木美奈子 長宗我部陽子
(配給:マジックアワー)
 
 
 

 それは、ダム建設によって破壊された自然の復讐のようにも見える。少年時代に圭が捕らえた亀が自然の象徴のように出現し、圭が超越的な存在に変貌するからだ。しかし、圭と同化した平山の行動は、亀の死だけではなく、木箱に納められたそれが自然から切り離されたものであることを明らかにする。この映画は、根を持たない妄念が具現する超越者と世界の間に生じる激しい軋み描き出す。

 そんな独自の視点は、エンタテインメントを意識した作品でも失われていない。『ラザロ』で怪物になっていくマユミは、グローバリゼーションによってシャッター街と化した商店街に宿る不可視のものを、あるいは、マユミが妹のナオコの絵を携えて故郷を離れることを踏まえるなら、悲劇の元凶である大型店舗に勤める彼女の恋人・梶川と対立して殺害されたナオコの怨念を、可視化するように見える。

 しかし、マユミは、ナオコが梶川から自分が成功するための金を脅し取ろうとしていたことを知らない。さらに怪物マユミの行動も、復讐とはいいがたい。ひたすら愛を否定しようとする彼女は、ナオコが色仕掛けで梶川を騙したように資産家の息子たちをたぶらかし、梶川が自分を手にかけたように自分に好意を寄せる刑事を手にかける。怪物となったマユミもまた、土地や家族から切り離され、格差や金に囚われ、世界との間に激しい軋みを生み出す。そこには、社会派エンタテインメントといわれるような作品とは決定的に異なる視点がある。

■■土地や家族に繋がる情念と切り離され肥大化する情念■■

 そして、『行旅死亡人』では、不可視のものがより巧妙に可視化されていく。友人のアスカとともに病院を訪れたミサキが再会するのは、前に勤務していた出版社の先輩・吉村靖子だ。ミサキは、もうひとりのミサキである靖子の部屋で、大切なものと思われる胡桃の殻のアクセサリーを見つけ出す。

 この物語の根底には、弱者として切り捨てられ、胡桃農園を失った農家の悲劇があり、アクセサリーには不可視のものが宿り、やがてある種の教祖のような経営者の存在とも結びついていく。

 しかし、ミサキ自身が不可視のものを可視化するわけではない。この映画では、橋の上に立つ女のイメージが印象に残る。ミサキが靖子の住所を訪ねると、そこには別人の吉村靖子が暮らしている。本物の靖子は、ミサキが去った後で自分の名前を使っていた人物のことを思い出し、橋の上でミサキに追いつき、そこでアクセサリーを手がかりに女の人生の断片が可視化される。長野の小諸で手がかりを失い、陸橋の上に佇むミサキとアスカは、雑誌のなかにアクセサリーと女を見出す。

 こうした可視化は、かつて女が渓谷にかかる橋の上で不可視の存在になったことに呼応している。対になったアクセサリーはそのときにばらけ、対極の情念を宿していく。一方は、土地や家族と結びついたままその存在の気配を消し去り、深く静かに潜行する。そしてもう一方は、土地や家族と切り離され、歪んだ社会のなかで肥大化し、世界を侵食しつつある。

 この映画のラストでは、ミサキとアスカが陸橋のようにも見える場所に立っている。アスカは執筆が進んでいるか尋ねるが、ミサキの答えは歯切れがよいとはいえない。映画は不可視なものを可視化してみせたが、ミサキは謎を解いただけで、可視化できるとは限らない。彼女たち、そして私たちは、そんな不可視のものに取り囲まれて日常を生きているのかもしれない。


(upload:2010/09/19)
 
 
《関連リンク》
男女の関係に集約されるグローバリゼーション
――『街のあかり』と『ラザロ‐LAZARUS‐』をめぐって
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