グローバリズムを象徴する空間の表と裏の世界
――『ゲート・トゥ・ヘヴン』と『堕天使のパスポート』をめぐって


ゲート・トゥ・ヘヴン/Gate to Heaven――――― 2003年/ドイツ/カラー/90分/シネマスコープ/ドルビーデジタル
堕天使のパスポート/Dirty Pretty Things―――― 2002年/イギリス/カラー/97分/ヴィスタ/ドルビーデジタル
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(初出:「Cut」2004年7月号、映画の境界線35、若干の加筆)

 

 

 昨年(2003年)初頭に公開されたヴィンチェンゾ・ナタリ監督の『カンパニー・マン』は、退屈な日常にうんざりした平凡な男が、ハイテク企業のスパイになる話だった。彼は、指令に従ってアメリカ各地を訪れ、会議に潜り込むが、やがて自分が洗脳されている疑いが浮上する。

 このドラマの舞台は、空港を巡るようにアメリカ全土に広がっていくが、撮影はすべてカナダのトロントで行われている。そこには、予算の都合だけではなく、積極的な狙いもある。ナタリは、アメリカ各地の都市が特色を失い、同じような風景ばかりであるため、ドラマで舞台が変わっても、ホテルや飛行機などを含めてみんなどこか同じに見えるような場所を意図的に選択したという。

 空の旅はよくグローバリズムによる均質化と結びつけられて語られる。ジョン・トムリンソンはその著書『グローバリゼーション』のなかで、ふたつが結びつけられる理由をこのように書いている。

なぜなら、世界中の空港ターミナルがどれも似たようなものであることは否定しようもないからだ。異なる文化的空間への出口や入口は、これまでたびたび指摘されてきたように、奇妙なまでに画一的で標準化されている

 また、『カンパニー・マン』の主人公が海外に出向くことはないが、彼の旅は同書のこんな記述を連想させる。「ビジネス旅行のあるべき姿とは、国際的なビジネス文化の「普遍的」慣習をスムーズに機能させるべく、文化的差異を最小化することなのである」。この映画で、洗脳はかなりグロテスクに描かれるが、ナタリが強調したいのは、このビジネス旅行のような環境に埋没し、自己すら見失った人間の姿といってもよいだろう。

 今回取り上げる2本の作品は、こうしたことを踏まえてみると、さらに興味深く思えてくる。どちらの映画も同じ環境をナタリとはまったく異なる視点からとらえようとしているからだ。

 ファイト・ヘルマー監督の『ゲート・トゥ・ヘヴン』は、フランクフルト空港を舞台にしている。主人公は、わけあって祖国にいられなくなった不法入国者で、パイロットに憧れるロシア人のアレクセイと、スチュワーデスを夢見ながら空港で清掃員として働くインド人のニーシャのふたりだ。

 一方、スティーヴン・フリアーズ監督の『堕天使のパスポート』は、ロンドンにあるホテルを舞台にしている。主人公は、やはりわけあって祖国にいられなくなった不法滞在者で、ホテルのフロントで夜勤係として働くナイジェリア人のオクウェと、祖国での生活を捨て、従姉妹のいるニューヨークに旅立つ日が来ることを夢見ながら、メイドとして働くトルコ人のシェナイのふたりだ。

 この2本の映画には、非常に多くの共通点がある。『ゲート・トゥ・ヘヴン』で、不法入国者の収容所から脱走したアレクセイは、空港のエンジニアという顔の裏でブローカーとして私腹を肥やすクロアチア人に拾われる。彼は、他の不法入国者たちと空港の地下空間で寝泊りし、清掃員として働くうちにニーシャに出会う。


―ゲート・トゥ・ヘヴン―

※スタッフ、キャストは
『ゲート・トゥ・ヘヴン』レビューを参照のこと


―堕天使のパスポート―

◆スタッフ◆

監督   スティーヴン・フリアーズ
Stephen Frears
脚本 スティーヴン・ナイト
Steven Knight
撮影 クリス・メンゲス
Chris Menges
編集 ミック・オーズリー
Mick Audsley
音楽 ネイサン・ラーソン
Nathan Larson

◆キャスト◆

シェナイ   オドレイ・トトゥ
Audrey Tautou
オクウェ キウェテル・イジョフォー
Chiwetel Ejiofor
ファン セルジ・ロペス
Sergi Lopez
ジュリエット ソフィー・オコネドー
Sophie Okonedo
グォイ ベネディクト・ウォン
Benedict Wong
アイヴァン ズラッコ・ブリッチ
Zlatko Buric
(配給:東芝エンタテインメント)
 
 


  スチュワーデスになりたい彼女は、空港のお偉方であるヨアヒムに相談するが、その男は無類の女好きとして知られている。アレクセイは、彼女がインドに残してきた息子を呼び寄せるのに苦慮しているのを知り、自腹を切ってブローカーに頼み、秘密裏に入国させる手筈を整えるが、思わぬ手違いが起こってしまう。

 この映画では、空港という環境と多様な異文化が対置される。主人公の他にも、ヤギと神秘的な関係を築くアフリカ人、自分で修理したプロペラ機で祖国に帰ることを望むモンゴル人、モルダビア人の掃除婦などが登場し、インド映画のトレードマークである歌と踊りのシーンまで盛り込まれている。

 アレクセイの仲間たちは、監視カメラの動きをチェックして仕事の手を抜き、移民局が踏み込んでくると迷路のようなパイプに逃げ込み、手荷物の運搬システムを使って移動する。

 そしてもうひとつ見逃せないのが、ヘルマーの前作『ツバル』にも描かれていた古い機械と新しいテクノロジーの対置だ。ニーシャに興味津々のお偉方は、彼女をフライト・シミュレーターに誘う。その空間のなかでは、一瞬にしてリオの空港にも舞い降りることができるが、すべては幻想である。これに対して、窮地に陥ったアレクセイの強い味方になるのは、モンゴル人のプロペラ機なのだ。

 『堕天使のパスポート』のオクウェとシェナイは、アパートで便宜的な共同生活を送っているが、メイドと夜勤であるためほとんど顔を合わせることはない。ある日、客室をチェックしたオクウェは、詰まったトイレから人間の心臓を発見する。

 ところが支配人のファンは、金で彼の口を封じようとする。元々医者であるオクウェは、その問題を見過ごせないが、不法滞在者であるため自分で警察に通報することは難しい。やがて彼は、その客室で密かに臓器の売買が行われ、ファンがそのブローカーであることを知る。

 この映画でも表と裏の世界をめぐって、ホテルという環境と異文化が様々に対置されていく。主人公たちを含めて、ホテルの従業員には外国人が目立つ。その従業員たちは、監視カメラで出勤が確認される。オクウェがシェナイにナイジェリアの料理を振舞うときは、宗教の違いを考慮する。オクウェの親友で、病院で働くグオイは中国人の難民である。臓器の売買に引き寄せられてくるのも外国人だ。

 オクウェは、成り行きで言葉も通じないアフリカ人の面倒を見ることになる。その男は、いいかげんな手術で臓器を摘出され、苦痛にあえいでいたのだ。結局、オクウェとシェナイは、移民局にマークされ、ホテルを辞めざるをえなくなるが、ホテルは最後まで彼らを呪縛する。どんな手段を使ってもパスポートを手に入れたいシェナイを守るために、オクウェは大きな決断を迫られることになる。

 『ゲート・トゥ・ヘヴン』と『堕天使のパスポート』では、空港とホテルという舞台から『カンパニー・マン』とはまったく対照的なドラマが紡ぎ出される。『カンパニー・マン』の主人公は、そんな環境のなかで交換可能な存在になっていく。逆にこの2作品では、グローバリズムを象徴する空間が、その裏側で様々な異文化を引き寄せ、他者性が鍵を握る人間ドラマの背景になるのだ。

《参照/引用文献》
『グローバリゼーション――文化帝国主義を超えて』 ジョン・トムリンソン●
片岡信訳(青土社、2000年)

(upload:2012/07/10)
 
 
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