艶やかなモノクロ映像とデジタル・ヴィデオによる鮮烈なカラー映像で構成されたゴダールの新作『愛の世紀』は、現代における愛の可能性を模索する映画であると同時に、アメリカに対して意外なほど辛辣な批判を繰り広げる映画でもある。
モノクロの第1部では、芸術家であるエドガーが、「出会い」、「肉体的な情熱」、「別れ」、そして「和解」という愛における4つの瞬間を、若者、大人、老人の3組の男女を通して描くという企画を構想している。彼はオーディションを進めるが、"大人"のヴィジョンをなかなか明確にすることができない。彼自身が若者と老人の狭間にある大人として、過去や記憶、歴史とどう向き合うべきなのか、揺れ動いているからだ。そんなエドガーは、彼にとって特別な存在である「彼女」のことを思い出し、出演を依頼するが、それは叶わぬ夢に終わってしまう。
アメリカ批判は、この第1部にもその兆しが見えるが、時代がその2年前にさかのぼるカラーの第2部でより明確になる。エドガーが彼女を"大人"とみなすこととアメリカに対する批判は深く結びついている。その頃、大戦中の対独レジスタンスについて調べていた彼は偶然、ある映画化権の交渉の場に居合わせる。そこでは、アメリカから来た"スピルバーグ・アソシエイツ"のエージェントが、レジスタンスの闘士だった老夫婦の体験を映画化する交渉を進めていた。そして、交渉に立会い、契約書の内容を確認する老夫婦の孫娘が「彼女」だった。
彼女の言葉は辛辣だ。エージェントがアメリカ人という言葉を使うと、アメリカ大陸の他の国民はブラジル人やカナダ人のように固有の呼び名を持っているのに、合衆国の人間には呼び名がないと詰め寄る。さらに、歴史も物語もないアメリカ人は、歴史を求め、物語を買い漁る、あるいはヴェトナムや旧ユーゴなどの紛争地帯にやってくると批判する。
そんな彼女の言葉は、時間的にその後のドラマとなる第1部にも波紋を広げていく。そこでエドガーは、アメリカ映画は歴史や物語を追い求めながら、何も見せてはいないと語っている。また映画には、過去や記憶がない場所にはレジスタンスは存在しないというナレーションが流れる。そして彼女の祖母は、レジスタンスが終わっていないかのように、いまだに戦時中の暗号名を使いつづけているのだ。
この映画は、単にアメリカの商業主義や軍事力の行使だけを批判しているのではない。その批判は、エリック・シュローサーの『ファストフードが世界を食いつくす』のなかにある、ラスヴェガスに関するこんな記述を想起させる。「ここではまさに、世界的な均質化現象が逆行している。世界じゅうがウォルマートやアービーズやタコベルといったアメリカ文化の前哨基地を建設しているあいだに、ラスヴェガスは過去10年を、世界じゅうを再現することに費やしてきた。(中略)エッフェル塔、自由の女神、スフィンクスなどのレプリカ。ヴェネチア、パリ、ニューヨーク、トスカナ、中世イギリス、古代エジプト・ローマ、中東、南太平洋を模した巨大な建物」。
アメリカは、アメリカ型市場主義というグローバリズムによって世界を均質化していく一方で、世界とその歴史や物語を人工的な空間のなかに再現しようとする。しかし、再現された世界には過去も歴史もなく、過剰なエキゾティシズムが生みだすリアリティを除けば、エドガーがいうように何も見せてはいない。そんな現実は、ハリウッド映画にも当てはまる。 |