グローバリズムのなかの歴史、エキゾティシズムのなかの戦争
――『愛の世紀』と『ブラックホーク・ダウン』をめぐって


愛の世紀/Eloge de L'amour――――――― 2001年/フランス=スイス/モノクロ・カラー/98分/スタンダード/ドルビーSRD
ブラックホーク・ダウン/Black Hawk Down―― 2001年/アメリカ/カラー/145分/シネスコ/ドルビーSRD・SDDS
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(初出:「Cut」2002年4月号 映画の境界線09、若干の加筆)

 

 

 艶やかなモノクロ映像とデジタル・ヴィデオによる鮮烈なカラー映像で構成されたゴダールの新作『愛の世紀』は、現代における愛の可能性を模索する映画であると同時に、アメリカに対して意外なほど辛辣な批判を繰り広げる映画でもある。

 モノクロの第1部では、芸術家であるエドガーが、「出会い」、「肉体的な情熱」、「別れ」、そして「和解」という愛における4つの瞬間を、若者、大人、老人の3組の男女を通して描くという企画を構想している。彼はオーディションを進めるが、"大人"のヴィジョンをなかなか明確にすることができない。彼自身が若者と老人の狭間にある大人として、過去や記憶、歴史とどう向き合うべきなのか、揺れ動いているからだ。そんなエドガーは、彼にとって特別な存在である「彼女」のことを思い出し、出演を依頼するが、それは叶わぬ夢に終わってしまう。

 アメリカ批判は、この第1部にもその兆しが見えるが、時代がその2年前にさかのぼるカラーの第2部でより明確になる。エドガーが彼女を"大人"とみなすこととアメリカに対する批判は深く結びついている。その頃、大戦中の対独レジスタンスについて調べていた彼は偶然、ある映画化権の交渉の場に居合わせる。そこでは、アメリカから来た"スピルバーグ・アソシエイツ"のエージェントが、レジスタンスの闘士だった老夫婦の体験を映画化する交渉を進めていた。そして、交渉に立会い、契約書の内容を確認する老夫婦の孫娘が「彼女」だった。

 彼女の言葉は辛辣だ。エージェントがアメリカ人という言葉を使うと、アメリカ大陸の他の国民はブラジル人やカナダ人のように固有の呼び名を持っているのに、合衆国の人間には呼び名がないと詰め寄る。さらに、歴史も物語もないアメリカ人は、歴史を求め、物語を買い漁る、あるいはヴェトナムや旧ユーゴなどの紛争地帯にやってくると批判する。

 そんな彼女の言葉は、時間的にその後のドラマとなる第1部にも波紋を広げていく。そこでエドガーは、アメリカ映画は歴史や物語を追い求めながら、何も見せてはいないと語っている。また映画には、過去や記憶がない場所にはレジスタンスは存在しないというナレーションが流れる。そして彼女の祖母は、レジスタンスが終わっていないかのように、いまだに戦時中の暗号名を使いつづけているのだ。

 この映画は、単にアメリカの商業主義や軍事力の行使だけを批判しているのではない。その批判は、エリック・シュローサーの『ファストフードが世界を食いつくす』のなかにある、ラスヴェガスに関するこんな記述を想起させる。「ここではまさに、世界的な均質化現象が逆行している。世界じゅうがウォルマートやアービーズやタコベルといったアメリカ文化の前哨基地を建設しているあいだに、ラスヴェガスは過去10年を、世界じゅうを再現することに費やしてきた。(中略)エッフェル塔、自由の女神、スフィンクスなどのレプリカ。ヴェネチア、パリ、ニューヨーク、トスカナ、中世イギリス、古代エジプト・ローマ、中東、南太平洋を模した巨大な建物」。

 アメリカは、アメリカ型市場主義というグローバリズムによって世界を均質化していく一方で、世界とその歴史や物語を人工的な空間のなかに再現しようとする。しかし、再現された世界には過去も歴史もなく、過剰なエキゾティシズムが生みだすリアリティを除けば、エドガーがいうように何も見せてはいない。そんな現実は、ハリウッド映画にも当てはまる。


―愛の世紀―

※スタッフ、キャストは
『愛の世紀』レビューを参照のこと


―ブラックホーク・ダウン―

◆スタッフ◆

監督   リドリー・スコット
Ridley Scott
原作 マーク・ボウデン
Mark Bowden
脚本 ケン・ノーラン
Ken Nolan
撮影 スワボミール・イジャック
Slawomir Idziak
編集 ピエトロ・スカリア
Pietro Scalia
音楽 ハンス・ジマー
Hans Zimmer

◆キャスト◆

エヴァーズマン   ジョシュ・ハートネット
Josh Hartnett
グライムズ ユアン・マクレガー
Ewan McGregor
マクナイト トム・サイズモア
Tom Sizemore
スティール ジェイソン・アイザックス
Jason Isaacs
ネルソン ユエン・ブレンナー
Ewen Bremner
ガリソン サム・シェパード
Sam Shepard
(配給:東宝東和)
 
 
 


 たとえばリドリー・スコットの新作『ブラックホーク・ダウン』だ。アメリカではこの映画に対して、ブッシュ政権の強硬姿勢を擁護するプロパガンダであるとか人種差別的であるとか、あるいはソマリア人がいかにアメリカを必要としていないかを浮き彫りにしているという意見が飛び交った。それらは、映画の世界をリアルに受け入れたところから出てくる意見だが、それ以前にこの映画からはアメリカの深層が見えてくる。

 『ブラックホーク・ダウン』は、一日にも満たない局地的な戦闘を描いたドラマであり、それは歴史を省略する格好の免罪符となる。しかし、希薄な歴史とは裏腹に、この映画では、ロケ地やセット、アフリカ音楽の要素を積極的に取り入れたサントラ、異境を際立たせる独特の色調など、過剰なエキゾティシズムを醸しだすために多大な努力が払われている。

 この作品のプロダクション・デザイナーが、理想的なロケ地を見出したことについて語るコメントはなかなか印象深い。「そこには、十字軍時代から残る城下町、古い住民地区、開拓中の新しい町、墓地、荒廃地域、美しい市場やモスクなどが勢ぞろいしていた。我々は、そのあらゆるものを活用したいと思ったんだ」(プレスより引用)。かつてバフティヤール・フドイナザーロフ監督は、『ルナ・パパ』の巨大なセットを作るにあたって、そこにヴィザンティンからスターリン時代まであらゆる時代の様式や雰囲気の建物を集めたと語っていた。もちろんその町は実在しないが、しかし監督は歴史と向き合うためにそれを作った。それに対してこの『ブラックホーク・ダウン』のロケ地は、歴史ではなく、エキゾティシズムのためだけに活用されているのだ。当然、激しい戦闘もまた、このエキゾティシズムのなかに回収されていく。

 そんな戦闘の核にあるのは、いかなる犠牲を払っても仲間を救うドラマだが、そこからはアメリカの深層が浮かび上がる。多民族で、不平等な市場主義の国アメリカは、内部に共通のアイデンティティや夢を求められると矛盾が露呈する危険を常に背負い、これまで外部に敵が登場することでその危機を免れてきた。以前も取りあげたトッド・ギトリンの『アメリカの文化戦争』には、「戦争は国内の画一性に祝杯をあげる季節になる」とか「戦争はアメリカ精神がたるんできたと思われる時分に起きては、その緩んだたがを締め直した」という記述がある。そういう意味では、いまのところアメリカで平等の理念が最も現実味をおびるのは、どこにもない異境のなかで敵の激しい攻撃にさらされるときでしかないのだ。


《参照/引用文献》
『ファストフードが世界を食いつくす』 ●
エリック・シュローサー 楡井浩一訳(草思社)2001年
『アメリカの文化戦争』 ●
トッド・ギトリン 疋田三良・向井俊二訳(彩流社)2001年

(upload:2004/02/28)
 
 
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