愛の世紀
Eloge de L'amour  Eloge de l'amour
(2001) on IMDb


2001年/フランス=スイス/モノクロ(第1部)・カラー(第2部)/98分/スタンダード/ドルビーSRD
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(初出:「STUDIO VOICE」2002年5月号)

 

 

成熟した大人と21世紀のレジスタンス

 

 ゴダールの新作『愛の世紀』は素晴らしい。この映画には、現代における愛の可能性についての模索があり、現代を生きることについての率直な探求があり、失われつつある歴史に対する検証があり、アメリカ映画とグローバリズムに対する辛辣で批判的な分析があり、愛と相容れない国家がもたらす苦痛があり、記憶と時間をめぐる神秘的な揺らぎがあり、成熟した大人への賛美があり、そして21世紀のレジスタンスがある。

 『愛の世紀』は、艶やかなモノクロ映像の第一部とデジタル・ビデオによる鮮烈なカラーの第二部からなる。パリを舞台にした第一部では、芸術家であるエドガーが、出会い、肉体的な情熱、別れ、そして和解という愛における四つの瞬間を、若者、大人、老人の三組の男女を通して描く企画を構想している。

 彼はオーディションを始めるが、“大人”のヴィジョンを明確にとらえることができない。彼自身が若者と老人の狭間で、過去や記憶、歴史とどう向き合うべきなのか、揺れ動いているのだ。そんな芸術家は、彼にとって特別な存在である「彼女」のことを思い出し、出演を依頼しようとするが、やがてそれが叶わぬ夢となっていたことを知る。

 第二部はその二年前のブルターニュが舞台となる。当時、第二次大戦中の対独レジスタンスについて調べていたエドガーは偶然、ある映画化権の交渉の場に居合わせる。そこではアメリカから来た“スピルバーグ・アソシエイツ”のエージェントと国務省の役人が、レジスタンスの闘士だった老夫婦の体験を映画化する交渉を進めていた。そして、その交渉に立会い、契約書の内容を確認する老夫婦の孫娘こそが「彼女」なのだ。

 この映画は、このふたつの部分の結びつきが際立った効果を生み、冒頭に書いたような世界を切り開くのだが、その結びつきに話を進める前に、もう一本の映画『そして愛に至る』に触れておくのも無駄ではないだろう。これはゴダールの公私にわたる長年のパートナー、アンヌ=マリー・ミエヴィルの新作だ。資料によればゴダールは、第一部を撮り終え、第二部となるブルターニュの撮影が難航をきわめているときに、この映画に出演するため四ヶ月の中断を余儀なくされたという。


◆スタッフ◆

監督
ジャン=リュック・ゴダール
Jean-Luc Godard
撮影 クリストフ・ポロック/ ジュリアン・ハーシュ
Christophe Pollock/ Julien Hirsch

◆キャスト◆

エドガー
ブリュノ・ピッツリュ
Bruno Putzulu
彼女 セシル・カンプ
Cecile Camp
祖父 ジャン・ダヴィー
Jean Davy
祖母 フランソワーズ・ヴェルニー
Francois Verny

(配給:プレノンアッシュ)
 


 『そして愛に至る』はある意味で大胆不敵な映画だ。これは、世界を認識し、自己の存在を確認する言葉についての映画なのだ。そこには視覚的なパフォーマンスも盛り込まれてないわけではないが、核にあるのはあくまでゴダールとミエヴィルのカップルを含む四人の男女の会話である。但しその会話は視覚と関連を持っている。この映画の冒頭では、目に見えない扉の存在について語られ、監督のミエヴィルは男女の会話を通して、言葉を求め、呪い、言葉によって解放され、閉ざされる姿に、自己と他者や世界とのつながりを見ようとするからだ。そして俳優ゴダールは、この映画の終盤でさめざめと泣く。リハーサルでは泣きべそをかくだけの約束だったため、この豹変はスタッフを驚かせたという。

 その体験や中断が『愛の世紀』に何らかの影響を及ぼしているかどうかはわからない。しかしとにかくこの映画の第二部は、非常にナイーブで、かつまたいつになく辛辣だとはいえる。撮影が難航したのも頷ける。

 その辛辣さは、映画化権の交渉に立ち会う「彼女」の言葉に現れている。エージェントがアメリカ人という言葉を使うと、アメリカ大陸の他の国民はブラジル人やカナダ人のように固有の呼び名を持っているのに、合衆国の人間には呼び名がないと詰め寄る。さらに歴史も物語もないアメリカは、歴史を求め、物語を買い漁る、あるいはヴェトナムや旧ユーゴなどの紛争地帯にやってくると批判する。

 そんな「彼女」の言葉は、時間的にその後のドラマとなる第一部に波紋を投げかける。その第一部ではエドガーも、アメリカ映画は歴史や物語を追い求めながら、実際には何も見せてはいないと語っている。そして、この映画には、過去や記憶がない場所にはレジスタンスは存在しないというナレーションが流れ、「彼女」の祖母は、レジスタンスが終わっていないかのように、いまだに戦時中の暗号名を使いつづけているのだ。

 ゴダールは第一部で、若さの輝きと歴史を生きた老いの重みを映像に鮮やかに刻み込む一方で、「彼女」には影をかぶせ、象徴的な存在にしている。そして第二部から振り返ったとき、第一部のその「彼女」の存在にはシモーヌ・ヴェイユやハンナ・アーレントの面影がダブっていることに気づく。グローバリズム=アメリカ型市場主義とハリウッドは、世界から歴史を払拭し、すべてを表層的なエキゾティシズムに変えていく。これに対してエドガーが成熟した大人とみなす「彼女」は、歴史とともにあり、レジスタンスを継承しようとする。そんな「彼女」の存在がリアルに見えるか、過去の幻影に見えるかは、歴史が消失しつつある時代のなかで、大人であることにどれだけ自覚的であるかどうかにかかっているというべきだろう。

(upload:2003/01/18)
 
 
《関連リンク》
グローバリズムのなかの歴史、エキゾティシズムのなかの戦争
――『愛の世紀』と『ブラックホーク・ダウン』をめぐって
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