『そして愛に至る』はある意味で大胆不敵な映画だ。これは、世界を認識し、自己の存在を確認する言葉についての映画なのだ。そこには視覚的なパフォーマンスも盛り込まれてないわけではないが、核にあるのはあくまでゴダールとミエヴィルのカップルを含む四人の男女の会話である。但しその会話は視覚と関連を持っている。この映画の冒頭では、目に見えない扉の存在について語られ、監督のミエヴィルは男女の会話を通して、言葉を求め、呪い、言葉によって解放され、閉ざされる姿に、自己と他者や世界とのつながりを見ようとするからだ。そして俳優ゴダールは、この映画の終盤でさめざめと泣く。リハーサルでは泣きべそをかくだけの約束だったため、この豹変はスタッフを驚かせたという。
その体験や中断が『愛の世紀』に何らかの影響を及ぼしているかどうかはわからない。しかしとにかくこの映画の第二部は、非常にナイーブで、かつまたいつになく辛辣だとはいえる。撮影が難航したのも頷ける。
その辛辣さは、映画化権の交渉に立ち会う「彼女」の言葉に現れている。エージェントがアメリカ人という言葉を使うと、アメリカ大陸の他の国民はブラジル人やカナダ人のように固有の呼び名を持っているのに、合衆国の人間には呼び名がないと詰め寄る。さらに歴史も物語もないアメリカは、歴史を求め、物語を買い漁る、あるいはヴェトナムや旧ユーゴなどの紛争地帯にやってくると批判する。
そんな「彼女」の言葉は、時間的にその後のドラマとなる第一部に波紋を投げかける。その第一部ではエドガーも、アメリカ映画は歴史や物語を追い求めながら、実際には何も見せてはいないと語っている。そして、この映画には、過去や記憶がない場所にはレジスタンスは存在しないというナレーションが流れ、「彼女」の祖母は、レジスタンスが終わっていないかのように、いまだに戦時中の暗号名を使いつづけているのだ。
ゴダールは第一部で、若さの輝きと歴史を生きた老いの重みを映像に鮮やかに刻み込む一方で、「彼女」には影をかぶせ、象徴的な存在にしている。そして第二部から振り返ったとき、第一部のその「彼女」の存在にはシモーヌ・ヴェイユやハンナ・アーレントの面影がダブっていることに気づく。グローバリズム=アメリカ型市場主義とハリウッドは、世界から歴史を払拭し、すべてを表層的なエキゾティシズムに変えていく。これに対してエドガーが成熟した大人とみなす「彼女」は、歴史とともにあり、レジスタンスを継承しようとする。そんな「彼女」の存在がリアルに見えるか、過去の幻影に見えるかは、歴史が消失しつつある時代のなかで、大人であることにどれだけ自覚的であるかどうかにかかっているというべきだろう。 |