ジョナサン・ノシター監督の『モンドヴィーノ』は、ワインに関するドキュメンタリーだが、映画が浮き彫りにするのは、ワインという枠組みを越えた世界の現実だ。ソムリエの資格も持つノシターは、世界各地を渡り歩き、ワインの生産・流通の現場に乗り込み、そこで出会う人々から巧みに本音を引き出していく。
そんな取材の旅を通して明確になるのは、グローバリゼーションの時代を検証するのに、ワインが格好の題材となるということだ。グローバリゼーションは、地域性や地域社会を破壊するといわれるが、激動するワイン産業には、それが端的に現れている。
ワインの世界には、土壌や地勢、気候などぶどうの生育環境を総称する“テロワール”という言葉があるように、ワインと地域の密接な結びつきがあったが、ワイン界のグローバリゼーションによってその結びつきは確実に失われつつある。この映画は、まず自分の土地に根を下ろした何人かの生産者の姿を映し出し、それからグローバリゼーションを牽引する人物たちに迫っていく。
ワイン・コンサルタントのミシェル・ロランは、世界12ヵ国にクライアントを抱え、売れるワイン造りの伝道に励む。ワイナリーを忙しく移動する車のなかで、クライアントからの電話に対して、「酸素を吹き込め」を連呼するように、彼は、技術を駆使することで人気のワインを生み出す。
カリスマ評論家のロバート・パーカーは、その評価がワインの売れ行きに多大な影響を及ぼす。そのために、彼のテイストに迎合するワインが増える。カリフォルニアワインで成功を収めたモンダヴィ一族は、様々なジョイント・ベンチャーによって海外に進出する。
その三者は、信頼関係で結ばれ、世界のワインをブランド化し、標準化していく。そして、ロランやモンダヴィは、やがていつの日にか月や他の惑星でワインが造られる時代が訪れることを夢想する。
このグローバリゼーションは、国家という枠組みを曖昧なものにする。たとえば、「ワイン・スペクテーター」誌の特派員は、両親の世代はフランスワインだったが、彼の世代はイタリアワインだと主張する。だが、そのフランスとイタリアが意味するものは同じではない。
彼が絶賛するのは、外来品種を用い、ロランが手がけ、モンダヴィが買収したイタリアワインだからだ。地元の小売店の店主も、彼らのブランド化されたワインはどこで造っても同じだと断言する。もちろんこの特派員の主張は、それも折込済みのパフォーマンスといえなくもない。
では、ワインでアルゼンチンを変えたエチャルト一族の場合はどうだろうか。一族は、成功にご満悦だが、彼らが造ったのは、ロランが手がけ、パーカーが高得点を付け、世界的に認知されたワインだ。そんな彼らは、先住民をいささか蔑視するような発言をする。するとノシターは、彼らとは対照的な生産者を訪ねる。亡父が純粋なインディオだったその生産者は、先祖代々の痩せた土地を守り、ぎりぎりの生活で良質なもうひとつのアルゼンチンワインを造りつづけているのだ。 |