ジョシュア・マーストン監督の『そして、ひと粒のひかり』では、“ミュール”と呼ばれる麻薬の運び屋の体験や実情が、ドキュメンタリーのように描き出される。17歳のマリアは、コロンビアの首都ボゴタの北にある田舎町で、祖母、母、未婚の母である姉と暮らし、家計を支えるためにバラ農園での単調な労働を余儀なくされている。そんな彼女は、愛してもいないボーイフレンドの子を妊娠したことを知り、さらに、農園でも冷酷なマネージャーともめて仕事を辞めてしまう。追い詰められた彼女は、外の世界に対する強い憧れと多額の報酬に心を動かされ、ミュールの仕事を引き受ける。
ミュールの先輩ルーシーから助言を得たマリアは、コカインをゴム袋に詰めた粒を大量に飲み込むために、大粒のブドウで練習を繰り返す。本番では、薬を混ぜたスープで喉の神経を麻痺させ、62粒を飲み込み、ニューヨーク行きの飛行機に乗り込む。体内でその袋が破れれば命はない。別の事情でひと粒でも紛失すればやはり命に関わる。機内のトイレで不用意に粒を排出してしまった彼女は、それを必死に飲み込む。そして、かろうじて税関をくぐり抜けた後は、モーテルに連れて行かれ、粒をすべて回収するまで監視下に置かれる。
監督のマーストンは、綿密なリサーチによって得られた情報をもとに、マリアの体験、彼女に見える世界だけを克明に描き出そうとする。台詞はスペイン語で、キャストにはアマチュアを含む地元の俳優たちが起用されている。そんなアプローチが、不安と緊張に満ちたリアルなドラマを生み出していく。
しかし、マーストンがリサーチの対象としているのは、ミュールや麻薬市場だけではない。マリアが働くバラ農園にも注目する必要がある。彼女はそこで切りバラの棘を抜く作業をしていた。それは、効率だけが優先される非人間的な流れ作業であり、映画では言及されないが、農園から出荷されたバラはアメリカに送られる。バラ農園の背景には、コロンビアやエクアドルがアメリカ市場に攻勢をかけ、アメリカ国内の産業を駆逐していったという歴史がある。つまり、このバラ農園もまた麻薬市場と同じように、グローバリゼーションと深い結びつきを持っているのだ。
グローバリゼーションについては、地域社会や家族の崩壊を招くという指摘もあるが、この映画に描かれるコロンビアの田舎町には、それが当てはまる。マリアが仕事を辞めたことを知った母親や姉は、謝罪してでも職場に戻るように説得する。家族は彼女を労働力としか見ていない。この町には他に女性ができる仕事はない。マリアの支えとなるようなコミュニティもなければ、彼女のロールモデルとなるような人物もいない。この映画は、そんなマリアの現実を掘り下げていくだけで、それが直接グローバリゼーションへと繋がっていく。なぜなら、その中間で彼女に影響を及ぼすはずの地域社会や家族が崩壊しかけているからだ。 |