そして、ひと粒のひかり

2004年/アメリカ=コロンビア/カラー/101分/スペイン語/ヴィスタ/ドルビーデジタル
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(初出:「キネマ旬報」2005年10月下旬号、若干の加筆)
グローバリゼーションに翻弄されながらも自己に目覚めていくヒロイン

 ジョシュア・マーストン監督の『そして、ひと粒のひかり』では、“ミュール”と呼ばれる麻薬の運び屋の体験や実情が、ドキュメンタリーのように描き出される。17歳のマリアは、コロンビアの首都ボゴタの北にある田舎町で、祖母、母、未婚の母である姉と暮らし、家計を支えるためにバラ農園での単調な労働を余儀なくされている。そんな彼女は、愛してもいないボーイフレンドの子を妊娠したことを知り、さらに、農園でも冷酷なマネージャーともめて仕事を辞めてしまう。追い詰められた彼女は、外の世界に対する強い憧れと多額の報酬に心を動かされ、ミュールの仕事を引き受ける。

 ミュールの先輩ルーシーから助言を得たマリアは、コカインをゴム袋に詰めた粒を大量に飲み込むために、大粒のブドウで練習を繰り返す。本番では、薬を混ぜたスープで喉の神経を麻痺させ、62粒を飲み込み、ニューヨーク行きの飛行機に乗り込む。体内でその袋が破れれば命はない。別の事情でひと粒でも紛失すればやはり命に関わる。機内のトイレで不用意に粒を排出してしまった彼女は、それを必死に飲み込む。そして、かろうじて税関をくぐり抜けた後は、モーテルに連れて行かれ、粒をすべて回収するまで監視下に置かれる。

 監督のマーストンは、綿密なリサーチによって得られた情報をもとに、マリアの体験、彼女に見える世界だけを克明に描き出そうとする。台詞はスペイン語で、キャストにはアマチュアを含む地元の俳優たちが起用されている。そんなアプローチが、不安と緊張に満ちたリアルなドラマを生み出していく。

 しかし、マーストンがリサーチの対象としているのは、ミュールや麻薬市場だけではない。マリアが働くバラ農園にも注目する必要がある。彼女はそこで切りバラの棘を抜く作業をしていた。それは、効率だけが優先される非人間的な流れ作業であり、映画では言及されないが、農園から出荷されたバラはアメリカに送られる。バラ農園の背景には、コロンビアやエクアドルがアメリカ市場に攻勢をかけ、アメリカ国内の産業を駆逐していったという歴史がある。つまり、このバラ農園もまた麻薬市場と同じように、グローバリゼーションと深い結びつきを持っているのだ。

 グローバリゼーションについては、地域社会や家族の崩壊を招くという指摘もあるが、この映画に描かれるコロンビアの田舎町には、それが当てはまる。マリアが仕事を辞めたことを知った母親や姉は、謝罪してでも職場に戻るように説得する。家族は彼女を労働力としか見ていない。この町には他に女性ができる仕事はない。マリアの支えとなるようなコミュニティもなければ、彼女のロールモデルとなるような人物もいない。この映画は、そんなマリアの現実を掘り下げていくだけで、それが直接グローバリゼーションへと繋がっていく。なぜなら、その中間で彼女に影響を及ぼすはずの地域社会や家族が崩壊しかけているからだ。


◆スタッフ◆

監督/脚本   ジョシュア・マーストン
Joshua Marston
撮影監督 ジム・デノールト
Jim Denault
編集 アン・マッケイブ、リーパーシー
Anne McCabe, Lee Percy
音楽 ジェイコブ・リーバーマン、レオナルド・ヘイブルム
Jacobo Lieberman, Leonardo Heiblum

◆キャスト◆

マリア   カタリーナ・サンディノ・モレノ
Catalina Sandino Moreno
ブランカ イェニー・パオラ・ヴェガ
Yenny Paola Vega
フランクリン ジョン・アレックス・トロ
John Alex Toro
ルーシー ギリード・ロペス
Guilied Lopez
カルラ パトリシア・ラエ
Patricia Rae
ドン・フェルナンド オーランド・トーボン
Orlando Tobon

(配給:ムービーアイ エンタテインメント)
 


 そうなると、マリアが農園を辞めてミュールになることの意味も変わってくる。それは、単なる転機ではない。彼女は、農園で仕事をしているときからすでにグローバリゼーションに取り込まれ、その先にミュールになるためのレールも敷かれている。彼女にミュールの話を持ちかけるフランクリンは、そんな出口のない地方で不満を抱えている娘たちを探し回るスカウトであるからだ。その結果、グローバリゼーションによって存在が規定されることの意味がより明確になる。マーストンがこの映画で描こうとしているのは、グローバリゼーションとその末端にいる個人の関係であり、マリアの本当の転機は、実は映画の後半に訪れるのだ。

 モーテルに閉じ込められたマリアは、その翌朝、バスルームが血だらけになり、見張り役の男たちと先輩のルーシーが見当たらないことに気づく。そのルーシーは機内ですでに体調を崩していた。危険を察知した彼女は、モーテルから逃亡し、空港でルーシーから渡されたメモを頼りにクイーンズに住む彼女の姉を訪ね、救いを求める。そこで彼女は、コロンビア人たちのコミュニティを発見する。だが、彼女は、何も知らない姉に、ルーシーに起こったことを語ることはできない。

 マーストンは、影響を受けた監督として、ケン・ローチ、マイク・リー、ヘクトール・バベンコ、コスタ・ガブラスの名前を上げているが、この映画を観る限り、筆者が大きな共通点を感じるのは、ダルデンヌ兄弟の世界だ。彼らは、グローバリゼーションによって疲弊した地域社会を背景に、孤立した若者たちが、切迫した状況のなかで自分に目覚め、大人へと移行する過程を探求しつづけている。

 この映画のマリアの姿は、彼らの『イゴールの約束』の主人公を想起させる。不法滞在外国人の斡旋を仕事にする父親に従属し、罪の意識もなく生きるイゴールは、瀕死の労働者と交わした約束に心を揺さぶられ、必死にその夫を探す妻に救いを見出し、苦しみながら真実と向き合っていく。マリアもまた、ルーシーの死に心を揺さぶられ、彼女の姉に精神的な救いを見出す。そして、その姉の好意を裏切るような立場に陥りながらも、真実と向き合い、自分の責任と自由に目覚めていくのだ。


(upload:2006/06/17)
 
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