[ストーリー] 前作から10年の時が流れ、より勢力を拡大し、文明的にも進化を遂げた猿たちは、シーザーのカリスマ的なリーダーシップのもとで森の中に巨大なコミュニティを築き上げていた。一方、絶滅の危機に瀕した人類は、わずかな生存者のグループが荒廃したサンフランシスコ都市部に身を潜めている。
そんなある日、エネルギー資源を探し求める人間たちが猿のテリトリーに侵入したため、一触即発の事態が勃発。平和を望むシーザーは、人間側を代表して交渉にやってきたマルコムの真摯な話に耳を傾け、信頼関係を育んでいく。しかしお互いへの憎悪をぬぐえない一部の猿と人間が暴走し、再び両陣営は激しく衝突。共存と対立の狭間で揺れるシーザーとマルコムは、種の存亡を懸けた重大な決断を迫られていく――。[プレスより]
1968年の名作『猿の惑星』の“起源”となる新たな物語を創造し、世界中で大ヒットした『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』。その続編となる『猿の惑星:新世紀(ライジング)』では、前作から10年後の世界と物語が描かれる。今回の監督は、『クローバーフィールド/HAKAISHA』、『モールス』で注目されたマット・リーヴスだ。
猿も人間も、主人公のシーザーとマルコムだけではなく、その大半が平和的な共存を望んでいるはずだが、互いに一部の強硬派が暴走することで集団全体を致命的な衝突へと巻き込んでいく。そんな展開は、いま実際に世界で起きている紛争を連想させずにはおかないだろう。
猿と人間の集団のなかで起こることは、お互いに鏡を見ているようによく似ている。そんなドラマを見ながら、哲学者マーク・ローランズの『哲学者とオオカミ』に書かれている知能や優越性についての考察を思い出した。
サルはオオカミよりも、体の大きさに対する脳の比率がほぼ20パーセントも大きいが、だからといって単純にサルの方がオオカミよりも知能が高いということはできない。ローランズがこだわるのは、サルがどのように大きな脳を獲得し、そのためにどのような代償を払わなければならなかったのかということだ。その鍵を握るのは、陰謀と騙しだという。それが類人猿やその他のサルがもつ社会的知能の核をなし、なんらかの理由でオオカミはその道を歩まなかった。
「手短に言えば、ほかの社会的動物には見られないような知能の発達を類人猿や有尾猿が達成できたのは、二重の必要性にかられた結果だ。自分を謀ろうとしている他者よりも、もっと巧みな謀略をする必要性と、自分が欺かれるよりももっとうまく相手を欺く必要性だ。これらの必要性によって、サルの知能の性格は動かしがたく形づくられている。わたしたちは、自分の仲間の心をより良く理解し、それによって仲間を欺き、自分の目的のために利用できるように(もちろん、まさに同じことを仲間もわたしたちに対してしようとする)、知能を発達させた。これら以外のこと、たとえば自然世界に対するすばらしい理解、知的かつ芸術的な創造力といったものは、これらの帰結としてその後に生じたのである」
「理由、証拠、正当化、権限。真に卑劣な動物だけが、これらの概念を必要とする。その動物が不愉快であればあるほど、そして悪意に満ち、仲直りの方法に無関心であればあるほど、正義感を火急に必要とするのだ。自然全体の中で、サルはまったく孤立している。サルだけが唯一、道徳的な動物となる必要があるほどに不愉快な動物だからだ。
わたしたちがもつ最高のものは、わたしたちがもつ最悪のものから生じた。これは必ずしも悪いことではないが、この点をわたしたちは肝に銘じなければならない」 |