「たとえば現代精神医学も、その解くべき封印の一つではないだろうか。絶え難い苦痛、絶望などが症状であるならば、もちろん治療という形で病気を封印すべきと思うが、生命の輝きそのもののような狂気もあり、これは本来、悲惨不毛なだけの病気でないにもかかわらず、これをも精神科医療の名のもとに封印してしまうことが少なくない」
精神科医の渡辺哲夫が書いた『祝祭性と狂気――故郷なき郷愁のゆくえ』は、沖縄・先島に息づくカンダーリ(表意文字で無理に記す場合には「神垂り、神憑り、神祟り」)という「巫病」、カンツキャギ(神突き上げ)、カンカカリャ(神憑り、神懸りした人)を題材にしている。第二章の「これはシャマニズム論ではない」というタイトルが示唆するように、本書ではそのカンダーリが、広く現代人そのものを見つめなおすために掘り下げられていく。
本書の視点には、哲学者のマーク・ローランズが書いた『哲学者とオオカミ――愛・死・幸福についてのレッスン』のそれと興味深い共通点がある。ローランズは本書で、オオカミと暮らした経験をもとに、人間とはなにかを掘り下げている。
彼はサルを人間が持つ傾向のメタファーとして使う。「サルとは、生きることの本質を、公算性を評価し、可能性を計算して、結果を自分につごうのよいように使うプロセスと見なす傾向の具現化だ」。その上で、オオカミとの違いを以下のように書いている。
「オオカミはそれぞれの瞬間をそのままに受け取る。これこそが、わたしたちサルがとてもむずかしいと感じることだ。わたしたちにとっては、それぞれの瞬間は無限に前後に移動している。それぞれの瞬間の意義は、他の瞬間との関係によって決まるし、瞬間の内容は、これら他の瞬間によって救いようがないほど汚されている。わたしたちは時間の動物だが、オオカミは瞬間の動物だ」
時間の動物は進化を遂げ、文明化するが、そこから見えてくるのはよいことばかりではない。
「理由、証拠、正当化、権限。真に卑劣な動物だけが、これらの概念を必要とする。その動物が不愉快であればあるほど、そして悪意に満ち、仲直りの方法に無関心であればあるほど、正義感を火急に必要とするのだ。自然全体の中で、サルはまったく孤立している。サルだけが唯一、道徳的な動物となる必要があるほどに不愉快な動物だからだ。
わたしたちがもつ最高のものは、わたしたちがもつ最悪のものから生じた。これは必ずしも悪いことではないが、この点をわたしたちは肝に銘じなければならない」
渡辺哲夫も人間と動物、瞬間と時間の関係に注目する。そのヒントになっているのは、ニーチェの以下のような言葉だ。有名な言葉ではあるし、長い引用になるが、これは明らかにローランズも意識していることなので、省略しないことにする。
「君のそばを草を喰らいながら通り過ぎる畜群を考察し給え。彼らは昨日が何であり、今日が何であるかを知らず、跳び廻り、食い、眠り、消化し、再び跳び、かくして朝から晩まで、毎日毎日、彼らの快と不快に短く、すなわち瞬間の杭にしばりつけられて、それゆえに憂愁も倦厭も知らずに過ごす。これを見るのは人間には辛いことである。なぜなら人間は動物の前で、われこそは人間なりと胸を張ってみせているのに、動物の幸福に嫉妬の眼を向けているからである――まことに、人間がただ一つ欲していることは、動物と等しく倦厭もなく苦痛も伴わずに生きることであるが、しかし徒にこれを欲するのみである、なぜなら人間は動物のごとくこれを欲することができないからである。なぜ君は私に君の幸福について語らず、ただ私をじっと視るだけなのか?と人間が動物に仮に問うたとする。動物は答えのつもりでこう言うだろう。それは、私は言おうと欲したことをいつでもすぐ忘れてしまうからだ、と――だがそのとき動物はこの答えをまたすぐ忘れて黙り込んでしまう。だからこそ人間は動物を不思議に思うのである。
しかし人間は忘却を学びえず絶えず過ぎ去ったものに固執している自分自身についてもいぶかしく思う。彼がこんなに遠くまで、どんなに速く走っても、過去の鎖も一緒に走って来る。瞬間は忽ちにして来たり、忽ちにして去るのに、以前にも虚無、以後にも虚無であるのに、なおも幻影として再び来たり、次の瞬間の安らいを妨げる。これは実に驚くべきことである。……動物は直ちに忘れ、あらゆる瞬間が現実に死に、霧と夜のなかに沈み込み、永遠に消え失せるのを見る。動物はかくして非歴史的に生きる。
……一切の過去を忘却して瞬間の敷居に腰をおろすことの可能でない者、勝利の女神のごとく目まいも恐れもなく一点に立つ能力のない者は幸福の何たるかを決して知らぬであろうし、なお悪いことには、他の人々を幸福ならしめることを何もなさないであろう」
渡辺はそんなニーチェの視点をヒントに“動物性”にこだわり、カンダーリ=巫病を精神障害に分類することなく、感受性や直感に従って掘り下げようとする。
「言うまでもなく<人間>は特殊ではあるが<動物>の一種である。進化論を信ずるならば、<人間>は、単細胞生物から始まって、原始哺乳類に至り、さらに途方もなく長い時間を経て、猿から、類人猿から進化してきた最先端に立つ<動物>である。だが、進化は幸福であったか、進化は神に近づくことであったか、それとも、進化は楽園からの追放ではなかったか、呪われた異化ではなかったか、致命的な跳躍ではなかったか。これはじっくりと考えるに値する問いである」
「じっさい、人間である以上、誰であっても精神性の直下に<動物性>という深淵を抱え込んでいる。だが、精神性が世俗の利害損得にのみ関心をもつ、計算された「企て」にまで堕ちてしまい死語と化してしまった現在、われわれは自然神・太陽神から与えられた透明な<動物性>に郷愁の念を抱き始めているのではないか」
ローランズも渡辺も私たちの精神性の深淵に強い関心を持っているが、そこに向ける眼差しには違いがある。それは、ふたりがそれぞれ哲学者と精神科医であることとも無関係ではないだろう。ローランズは以下のように書いている。
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