祝祭性と狂気 故郷なき郷愁のゆくえ / 渡辺哲夫


2007年/岩波書店
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(初出:Into the Wild 2.0 | 大場正明ブログ)

現代精神医学という封印を解き、
精神性の深淵としての<動物性>を再検証する

たとえば現代精神医学も、その解くべき封印の一つではないだろうか。絶え難い苦痛、絶望などが症状であるならば、もちろん治療という形で病気を封印すべきと思うが、生命の輝きそのもののような狂気もあり、これは本来、悲惨不毛なだけの病気でないにもかかわらず、これをも精神科医療の名のもとに封印してしまうことが少なくない

 精神科医の渡辺哲夫が書いた『祝祭性と狂気――故郷なき郷愁のゆくえ』は、沖縄・先島に息づくカンダーリ(表意文字で無理に記す場合には「神垂り、神憑り、神祟り」)という「巫病」、カンツキャギ(神突き上げ)、カンカカリャ(神憑り、神懸りした人)を題材にしている。第二章の「これはシャマニズム論ではない」というタイトルが示唆するように、本書ではそのカンダーリが、広く現代人そのものを見つめなおすために掘り下げられていく。

 本書の視点には、哲学者のマーク・ローランズが書いた『哲学者とオオカミ――愛・死・幸福についてのレッスン』のそれと興味深い共通点がある。ローランズは本書で、オオカミと暮らした経験をもとに、人間とはなにかを掘り下げている。

 彼はサルを人間が持つ傾向のメタファーとして使う。「サルとは、生きることの本質を、公算性を評価し、可能性を計算して、結果を自分につごうのよいように使うプロセスと見なす傾向の具現化だ」。その上で、オオカミとの違いを以下のように書いている。

オオカミはそれぞれの瞬間をそのままに受け取る。これこそが、わたしたちサルがとてもむずかしいと感じることだ。わたしたちにとっては、それぞれの瞬間は無限に前後に移動している。それぞれの瞬間の意義は、他の瞬間との関係によって決まるし、瞬間の内容は、これら他の瞬間によって救いようがないほど汚されている。わたしたちは時間の動物だが、オオカミは瞬間の動物だ

 時間の動物は進化を遂げ、文明化するが、そこから見えてくるのはよいことばかりではない。

理由、証拠、正当化、権限。真に卑劣な動物だけが、これらの概念を必要とする。その動物が不愉快であればあるほど、そして悪意に満ち、仲直りの方法に無関心であればあるほど、正義感を火急に必要とするのだ。自然全体の中で、サルはまったく孤立している。サルだけが唯一、道徳的な動物となる必要があるほどに不愉快な動物だからだ。
 わたしたちがもつ最高のものは、わたしたちがもつ最悪のものから生じた。これは必ずしも悪いことではないが、この点をわたしたちは肝に銘じなければならない

 渡辺哲夫も人間と動物、瞬間と時間の関係に注目する。そのヒントになっているのは、ニーチェの以下のような言葉だ。有名な言葉ではあるし、長い引用になるが、これは明らかにローランズも意識していることなので、省略しないことにする。

君のそばを草を喰らいながら通り過ぎる畜群を考察し給え。彼らは昨日が何であり、今日が何であるかを知らず、跳び廻り、食い、眠り、消化し、再び跳び、かくして朝から晩まで、毎日毎日、彼らの快と不快に短く、すなわち瞬間の杭にしばりつけられて、それゆえに憂愁も倦厭も知らずに過ごす。これを見るのは人間には辛いことである。なぜなら人間は動物の前で、われこそは人間なりと胸を張ってみせているのに、動物の幸福に嫉妬の眼を向けているからである――まことに、人間がただ一つ欲していることは、動物と等しく倦厭もなく苦痛も伴わずに生きることであるが、しかし徒にこれを欲するのみである、なぜなら人間は動物のごとくこれを欲することができないからである。なぜ君は私に君の幸福について語らず、ただ私をじっと視るだけなのか?と人間が動物に仮に問うたとする。動物は答えのつもりでこう言うだろう。それは、私は言おうと欲したことをいつでもすぐ忘れてしまうからだ、と――だがそのとき動物はこの答えをまたすぐ忘れて黙り込んでしまう。だからこそ人間は動物を不思議に思うのである。
 しかし人間は忘却を学びえず絶えず過ぎ去ったものに固執している自分自身についてもいぶかしく思う。彼がこんなに遠くまで、どんなに速く走っても、過去の鎖も一緒に走って来る。瞬間は忽ちにして来たり、忽ちにして去るのに、以前にも虚無、以後にも虚無であるのに、なおも幻影として再び来たり、次の瞬間の安らいを妨げる。これは実に驚くべきことである。……動物は直ちに忘れ、あらゆる瞬間が現実に死に、霧と夜のなかに沈み込み、永遠に消え失せるのを見る。動物はかくして非歴史的に生きる。
 ……一切の過去を忘却して瞬間の敷居に腰をおろすことの可能でない者、勝利の女神のごとく目まいも恐れもなく一点に立つ能力のない者は幸福の何たるかを決して知らぬであろうし、なお悪いことには、他の人々を幸福ならしめることを何もなさないであろう

 渡辺はそんなニーチェの視点をヒントに“動物性”にこだわり、カンダーリ=巫病を精神障害に分類することなく、感受性や直感に従って掘り下げようとする。

言うまでもなく<人間>は特殊ではあるが<動物>の一種である。進化論を信ずるならば、<人間>は、単細胞生物から始まって、原始哺乳類に至り、さらに途方もなく長い時間を経て、猿から、類人猿から進化してきた最先端に立つ<動物>である。だが、進化は幸福であったか、進化は神に近づくことであったか、それとも、進化は楽園からの追放ではなかったか、呪われた異化ではなかったか、致命的な跳躍ではなかったか。これはじっくりと考えるに値する問いである

じっさい、人間である以上、誰であっても精神性の直下に<動物性>という深淵を抱え込んでいる。だが、精神性が世俗の利害損得にのみ関心をもつ、計算された「企て」にまで堕ちてしまい死語と化してしまった現在、われわれは自然神・太陽神から与えられた透明な<動物性>に郷愁の念を抱き始めているのではないか

 ローランズも渡辺も私たちの精神性の深淵に強い関心を持っているが、そこに向ける眼差しには違いがある。それは、ふたりがそれぞれ哲学者と精神科医であることとも無関係ではないだろう。ローランズは以下のように書いている。


 
◆目次◆

01.   私的経験から――序にかえて
02. これはシャマニズム論ではない
03. 比較文化精神医学の方法はとらない
04. 民俗学管見
05. 南の島の祝祭性
06. カミダーリあるいはカンダーリ
07. カンカカリャとカンダーリの時間論的差異
08. <祝祭性の伝統>とは何か
09. <神霊性>としての<動物性>
10. カンダーリとエロティシズム
11. 水の信仰と生命の形
12. カンカカリャの物語の必然性・プロット
13. 池間島のユークイ
14. <狂気>と生活
15. <瞬間の狂気>を媒介する場の変質
16. 一つの封印としての現代精神医学
17. 精神病理学の<絶対的過去>をもとめて
18. <瞬間の狂気>から「歴史化」された狂気へ――結語にかえて
  あとがき

◆著者プロフィール◆

渡辺哲夫
1949年 茨城県生まれ。
1973年 東北大学医学部卒業(医学博士)。
都立松沢病院、東京医科歯科大学、正慶会栗田病院、いずみ病院(沖縄県うるま市)を経て、現在、稲城台病院勤務。
主な著書:『シュレーバー』(筑摩書房、1993年)、『死と狂気』(ちくま学芸文庫、2002年)、『<わたし>という危機』(平凡社、2004年)、『20世紀精神病理学史』(ちくま学芸文庫、2005年)ほか。
主な訳書:ダニエル・パウル・シュレーバー『ある神経学者の回想録』(筑摩書房、1990年)、ジークムント・フロイト『モーセという男と一神教』(『フロイト全集』第22巻所収)(岩波書店、2007年)ほか。

 

わたしたちの魂には、サルになるはるか以前、つまりこうした傾向がわたしたちを圧倒する前から存在していた部分もある。この部分は、わたしたちが自分自身について語る所説の中に隠されている。隠されているとはいえ、これを掘り起こすことはできる

 一方、渡辺は以下のように書いている。

<動物性>を乗り越えて「進化」して<人間>となったわれわれという存在は<反・動物性>と規定されうるだろう。ここで、この「反」は、<動物性>の否定、隠蔽、抑圧、忘却、歪曲、追放、また、<動物性>の超越や言語的に媒介された歴史化、さらには<動物性>からの疎外、異化など、じつに多様な意味を含みもつけれども、<反・動物性>が原初において楽園を追放された者の特性であることは言うまでもあるまい。<反・動物>たるわれわれは、楽園を、故郷を、さらには自然に密着した太古の世界を、大自然を、輝く太陽を懐かしむ。だが、この郷愁の念が激しい衝動となれば、われわれは<動物>に戻れるのだろうか。不可能である。少なくとも異様に歪んだ形でしか<動物>に近づけない。この衝動の帰結は、<人間>否定、すなわち<反・動物>超越とならざるをえない。
それゆえ、<動物性>への歪みねじれた帰郷は、<反・反・動物性>と言うべき奇怪な特性に支配された存在になること以外にないのである

 動物は過去も未来もなく<瞬間>を生きる。<反・動物>としての人間は、「生産労働の歴史」に取り込まれ、過去と未来に縛られ、憂愁、倦厭、嫉妬、苦痛に苛まれる。そこでカンダーリという<狂気>が意味を持つ。

それは「歴史性」によって封印拘束された<反・動物性>から脱出せんとする衝動、<瞬間性>に祝福された高貴な<動物性>に帰郷せんとする衝迫の炸裂という運動である

 本書では、狂気に陥った人間の深淵に<動物性>を見出し、<反・動物>と規定され歴史に取り込まれた人間が、<反・反・動物性>へと反転すること、言語的に媒介される前の透明な世界に肉薄すること、歴史の外部へと超出して<瞬間>を生きること、<動物性>へと帰郷することの可能性が掘り下げられている。

《参照/引用文献》
『哲学者とオオカミ――愛・死・幸福についてのレッスン』マーク・ローランズ●
今泉みね子訳(白水社、2010年)

(upload:2014/01/27)
 
 
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