結婚パーティーで新郎マイケルはジャスティンにあるものを贈る。購入したりんご園の写真を差し出し、「10年後には木が育ち、君は木陰に椅子を置いて座る。その頃も気が沈む日があれば、りんごの木が君を幸せにしてくれる」と語る。
パーティーのために大金を注ぎ込んだジョンは、ジャスティンに「有意義な出費だったと思えるように取引しよう。必ず幸せになること」と語る。
ある未来を想定して生きることはもちろん悪いことではない。しかし第二部では、未来を想定することに対する印象が変わってくるはずだ。
たとえば、ジョンが姿を消したあとで、クレアがひとりでメランコリアの大きさを測定しようとする場面だ。五分後の未来に呪縛されている彼女は、こまめに時計を見る以外なにもできない。そして、世界の終わりを確信すると、その最後という想定された未来をいかに過ごすかで頭がいっぱいになる。
これに対してジャスティンは、どんな未来であれそれを想定することを拒絶し、いまを生きている。
その違いをどう解釈するかに話を進める前に、もうひとつの重要な要素として自然に注目しておくべきだろう。前作『アンチクライスト』は、アンドレイ・タルコフスキー監督に捧げられていた。この『メランコリア』の導入部では、ブリューゲルの「雪中の狩人」が印象に残るが、それはタルコフスキーの『惑星ソラリス』のなかで、宇宙ステーションの図書室に飾られていた絵でもある。
フォン・トリアーはタルコフスキーと同じように自然との関係を通して人間を見つめているが、フォン・トリアーの場合には、動物という存在がより際立っている。前作には鹿、狐、鴉が、新作には馬が登場するが、それは先述した時間に対する認識と無関係ではない。
そこで筆者がぜひとも引用したいのが、哲学者のマーク・ローランズが書いた『哲学者とオオカミ』だ。この本では、実際にオオカミと暮らした経験を通して、人間であることの意味が掘り下げられる。
ローランズは、サルを人間が持つ傾向のメタファーとして使う。たとえば、「サルとは、生きることの本質を、公算性を評価し、可能性を計算して、結果を自分につごうのよいように使うプロセスと見なす傾向の具現化」である。だからこそサルは、知能を発達させ、文明化することができた。では、サルとオオカミはどこが違うのか。
「オオカミはそれぞれの瞬間をそのままに受け取る。これこそが、わたしたちサルがとてもむずかしいと感じることだ。わたしたちにとっては、それぞれの瞬間は無限に前後に移動している。それぞれの瞬間の意義は、他の瞬間との関係によって決まるし、瞬間の内容は、これら他の瞬間によって救いようがないほど汚されている。わたしたちは時間の動物だが、オオカミは瞬間の動物だ」
この映画のジャスティンは限りなくオオカミに近い。全裸で小川の辺に横たわり、惑星を見つめる彼女は、まさに純粋な瞬間を生きている。
もちろん私たちが人間である以上、瞬間だけを生きることはできない。しかし、それを取り戻さなければならないときもあるのではないか。
この映画のラストで、レオの手を握っているのが、クレアではなくジャスティンで、二人の様子が平穏に見えるのは、一寸先を恐れるのではなく、瞬間を共有し、受け入れているからだろう。
そんなジャスティンの姿は、筆者にニーチェのある言葉を想起させる。彼は『反時代的考察』のなかで、過去に執着する不幸な人間と瞬間を生きる幸福な動物を対比したあとで、以下のように書いている。
「一切の過去を忘却して瞬間の敷居に腰をおろすことの可能でない者、勝利の女神のごとく目まいも怖れもなく一点に立つ能力のない者は幸福の何たるかを決して知らぬであろうし、なお悪いことには、他の人々を幸福ならしめることを何もなさないであろう」 |