奇跡の海
Breaking the Waves  Breaking the Waves
(1996) on IMDb


1996年/デンマーク/カラー/158分/シネマスコープ/ドルビーデジタル
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(初出:「STUDIO VOICE」1997年、若干の加筆)

 

 

限りなく遠い場所から限りなく透明な眼差しで

 

 ラース・フォン・トリアー監督の『奇跡の海』は、間違いなく私たちの心を揺さぶる作品だが、どう揺さぶるかについては人によってかなり開きがあるはずだ。

 フォン・トリアーの映画の魅力は、登場人物や彼らを取り巻く世界を支える土台や枠組みが、この監督のオブセッションから放たれる映像のダイナミズムによって解体され、人間存在に新たな光が投げかけられるところにある。それだけに、そのダイナミズムのとらえかた次第で、心を揺さぶることの意味も変わってくる。

 『奇跡の海』は、これまでの作品に比べると、リアリズムを尊重するかのように表現が抑えられているばかりか、物語がわかりやすく完結するため、フォン・トリアーらしいダイナミズムが見えにくい作りになっている。

 この映画で登場人物たちの世界を支えているのは、教会であり、宗教である。舞台は厳しい戒律が支配するスコットランドの寒村で、戒律に背くことがあろうとも自分に正直に純粋な愛をどこまでも貫き通そうとする男女の姿が、生々しくリアルなタッチで描き出されていく。

 あまりにも無垢で深い信仰心、愛情と喜び、悲劇的な事故と罪悪感、身体の自由を奪われて生き続けることの苦痛と狂気、献身と汚辱、教会の圧力や疎外、そして、犠牲と奇跡。物語の流れをたどっていくと、これは教義に縛られ硬直した宗教を解体し、普遍的な信仰の力を描く映画のように見える。そして、突き詰めれば王道ともいえる物語に深い感動を覚える人も少なくないだろう。

 しかし、この映画の凄さは、抑えているように見える映像からこれまでにないダイナミズムを生み出され、硬直した宗教と普遍的な信仰という図式すら払拭し、存在の深淵へと踏みだしていくところにある。

 映画は、主人公の男女の軌跡を描く八つの断片的な物語と、その合間に挿入されるスコットランドの自然の景観をとらえたショットで構成されている。このドラマとパノラマ・ショットの交錯が生みだす効果は、まさに映画ならではの魔術といえる。


◆スタッフ◆
 
監督/脚本   ラース・フォン・トリアー
Lars Von Trier
共同脚本 ピーター・アスムッセン
Peter Asmussen
撮影 ロビー・ミューラー
Robby Muller
編集 アナス・レフン
Anders Refn
 
◆キャスト◆
 
ベス   エミリー・ワトソン
Emily Watson
ヤン ステラン・スカルスガルド
Stellan Skarsgard
ドド カトリン・カートリッジ
Katrin Cartlidge
テリー ジャン=マルク・バール
Jean-Marc Barr
牧師 ジョナサン・ハケット
Jonathan Hackett
リチャードソン医師 エイドリアン・ローリンズ
Adrian Rawlins
ベスの母親 サンドラ・ヴォー
Sandra Voe
トロール船の男 ウド・キアー
Udo Kier
-
(配給:ユーロスペース)
 

 ドラマの部分は、ドライヤーを意識したクローズアップの連続で、しかも手持ちカメラで男女に激しく肉薄していく。一方、パノラマ・ショットは、デジタル処理、彩色が施され、光の変化、風や雲の動きが神秘的にすら見える象徴的な映像になっている。そこで、男女のドラマを身近に感じる観客は、パノラマ・ショットに変わると、無意識のうちに彼らの存在を求め、その世界の片隅に向かって目を凝らそうとする。そんな作業が何度となく繰り返されると、やがてこの男女のことを限りなく遠い場所から、少しもかすむことなく、肉体の痙攣や心の震えまでをしっかりと凝視していることに気づく。

 それはどういうことかといえば、戒律だの犠牲だの奇跡だのといった宗教に縛られた物語から完全に解き放たれた男女の営みを、余計な感情移入をすることなく透明な眼差しで見つめつづけることを可能にしてくれるということだ。フォン・トリアーはこの映画を“ア・シンプル・ラブストーリー”と呼んでいるが、シンプルとはまさにそういうことなのだろう。

 そして、突飛だと思われることを覚悟で告白すれば、筆者はこの映画を観ながらタルコフスキーの『惑星ソラリス』と対比していた。ソラリスの海は主人公の前に永遠に失われたはずの女性を現出させ、想像を絶する試練が始まるが、観客は、そんな設定ゆえに限りなく遠い場所から感情移入することなく、しかしある種のリアリティを感じながら試練を見つめつづける。そんなSF的な設定を使っているかのような未知の感触がこの映画にはある。

 またさらに、『惑星ソラリス』のラストでは、カメラが引いていくと地球に戻ったはずの主人公がソラリスの海に浮かぶ小島に立っていることが明らかになるが、『奇跡の海』のラストも、海にそびえる油井を俯瞰のショットでとらえ、不可知の海を漂う人間を象徴しているように見える。しかも、フォン・トリアーは、そんな人間の営みを厳かな鐘の音で祝福すらする。私たちはそのダイナミズムに圧倒され、カタルシスに至ることになる。


(upload:2013/01/28)
 
 
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