ダンサー・イン・ザ・ダーク
Dancer in the Dark


2000年/デンマーク/カラー/140分/シネスコ/ドルビーデジタル
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(初出:「STUDIO VOICE」2001年1月号、若干の加筆)

 

 

ファンタジーのなかに実体化されるアメリカ

 

 ラース・フォン・トリアーは、これまでの監督作にふたつの三部作という位置づけをしている。『エレメント・オブ・クライム』『エピデミック』『ヨーロッパ』が、男を主人公にしたヨーロッパ℃O部作で、『奇跡の海』『イディオッツ』『ダンサー・イン・ザ・ダーク』が、女を主人公にしたア・ハート・オブ・ゴールド℃O部作ということだ。後者は、フォン・トリアーが子供の頃に耽読した童話「ゴールド・ハート」がその名の由来になっている。

 このふたつの三部作は、呪縛とそれに対する解放の関係にあると見ることができる。

 最初の三部作は、物語やスタイルの複雑な構造が出口のない迷宮を作り上げる。迷宮の入り口となるのは、『エレメント〜』と『ヨーロッパ』の冒頭や『エピデミック』の終盤の会食で描かれる催眠暗示であり、主人公たちは、決して目覚めることのない悪夢としての現実に囚われていく。

 新しい三部作は物語もスタイルも、この最初の三部作とはかなり違う。対照的ですらある。その転換点になっているのは、フォン・トリアーがふたつの三部作の狭間でドグマ95を立ち上げたことだろう。また、新しい三部作の基調となるインスピレーションを彼に与えたという童話も興味深いものがある。

 「ゴールド・ハート」の主人公は、森の奥にある一軒家に暮らす孤独な少女だ。彼女は、暖をとる薪も食料も尽きたために外に出て行くが、次々と困っている人々に出会い、最後のクッキーや帽子、セーターを彼らに与える。そして与えるものが何もなくなった時、空から星が降り注ぐ光景を目にし、やがて王子に出会って求婚される。

 新しい三部作のヒロインたちは、この少女から発展している。彼女たちは純粋無垢な心の持ち主で、愛する者のためには、どんな苦痛も犠牲も厭わない。そういう意味では、彼女たちのキャラクターはあらかじめある程度決定されているし、物語もメロドラマになることは避けがたい。フォン・トリアーのすごいところは、あえてこのシンプル極まりない条件を受け入れながら、呪縛に対する解放を描きだしてしまうところにある。

 『奇跡の海』では、執拗なまでに男女に肉薄する手持ちカメラを通して映しだされるドラマと、自然や時間の流れを鮮やかにとらえるパノラマ・ショットを交錯させることによって、その中間にあるメロドラマの通俗性や感傷が見事に拭い去られた。その結果、限りなく遠い場所から、感情に流されることなく、彼らの肉体の痙攣や心の震えまでをしっかりと見つめつづけることが可能となった。ヒロインを動かす想像力が、 現実を捻じ曲げる超越的な瞬間すら、何ら劇的なことではないように受け入れられる。まさにフォン・トリアーが言うように、ア・シンプル・ラブストーリー≠ネのだ。


◆スタッフ◆

監督/脚本
ラース・フォン・トリアー
Lars von Trier
撮影監督 ロビー・ミューラー
Robby Muller
編集 モリー・マレーネ・ステンスガード/フランソワ・ゲディギエール
Molly Marlene Stensgard / Francois Gedigier
音楽 ビョーク
Bjork

◆キャスト◆

セルマ
ビョーク
Bjork
キャシー カトリーヌ・ドヌーヴ
Catherine Deneuve
ビル デイヴィッド・モース
David Morse
ジェフ ピーター・ストーメア
Peter Stormare
ノヴィ ジョエル・グレイ
Joel Grey
サミュエル ヴィンセント・パターソン
Vincent Paterson
ノーマン ジャン=マルク・バール
Jean-Marc Barr
(配給:松竹)
 


 『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のヒロインは、60年代初頭に共産圏のチェコからアメリカに移民したセルマ。彼女は工場で働き、女手ひとつで息子を育てている。しかし遺伝性の病のため視力を失いかけている。手術を受けない限り息子も同じ道をたどることを知っている彼女は、その費用をこつこつ貯めてきた。ところが、親しい隣人がそれを横取りしようとしたことから悲劇が起こり、彼女は殺人犯として極刑を宣告されてしまう。

 この映画もまた決してメロドラマになることはない。ハリウッドのミュージカルに強い憧れを持つ彼女は、地元のアマチュア劇団で「サウンド・オブ・ミュージック」の稽古をし、仕事帰りにミュージカルがかかっている映画館に行く。彼女にはもはやスクリーンは見えないが、同僚が言葉と手でイメージやリズムを伝えるのだ。そこでこの映画では、現実のドラマとミュージカル仕立ての彼女のファンタジーが交錯していくことになる。

 フォン・トリアーの『ヨーロッパ』は、カフカの『アメリカ』におけるアメリカとドイツを逆転させるところから構築された物語だったのに対して、セルマはカフカの生地チェコからアメリカにやって来た。しかし、彼女のファンタジーは、彼女がいまだ現実ではなく幻影のアメリカに存在していることを物語っている。工場の機械の音が起点となる最初のミュージカル・シーンは、彼女の頭のなかで、 ソ連のプロパガンダ風ミュージカルに翻訳され、列車の音が起点となる第二のシーンは、戦争や動乱の記憶を引きずるヨーロッパの風景に翻訳される。

 そんなセルマは、工場を首にされ、貯めた金を奪われるという資本主義の洗礼を受け、法廷でコミュニスト呼ばわりされることによって、ファンタジーのなかにアメリカを実体化させていく。この映画の現実のドラマは、最初は極めて不安定なカメラの動きによって綴られていくが、彼女がアメリカを実体化させていくに従って、安定し、焦点を結んでいく。彼女は、そのファンタジーとは対照的に現実の世界では、 目が見えないためにミュージカルの現場で怯え、尻込みしていたが、最後に想像力によって現実を捻じ曲げ、憧れの舞台に立つ超越的な瞬間を迎えるのである。


(upload:2001/04/10)
 
 
《関連リンク》
『ニンフォマニアック(Vol.1/Vol.2)』 レビュー ■
『メランコリア』 レビュー ■
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