マーク・ローランズはウェールズ生まれの哲学者で、本書では、ブレニンという名のオオカミと10年以上に渡っていっしょに暮らした経験を通して、ブレニンについて書くだけではなく、人間であることが何を意味するのかを掘り下げてもいる。
彼が本書で書いていることは、表現は違うが、渡辺哲夫の『祝祭性と狂気 故郷なき郷愁のゆくえ』のそれに通じるものがある。どちらも進化によって失われた“動物性”の意味を検証し、それを呼び覚まそうとする。
『祝祭性と狂気』では、動物と人間が「瞬間」と「歴史」として対置される。動物は瞬間を生きる。進化した<反・動物>としての人間は、「生産労働の歴史」に取り込まれ、過去と未来に縛られ、憂愁、倦厭、嫉妬、苦痛に苛まれる。だからといって動物に戻ることは不可能だ。そこで、カンダーリという瞬間の狂気を糸口に、<反・反・動物性>という地平を切り拓き、動物性に帰郷にようとする。
▼この人がローランズだが、いっしょにいるのはブレニンではない。ブレニンは、各地の大学で教えるローランズとともに合衆国、アイルランド、イングランド、フランスと渡り歩き、フランスで死んだ。ローランズはその後マイアミに移り、この映像はそこで撮影したものだ。
一方、ローランズは、サルを人間が持つ傾向のメタファーとして使う。たとえば、「サルとは、生きることの本質を、公算性を評価し、可能性を計算して、結果を自分につごうのよいように使うプロセスと見なす傾向の具現化だ」。だからこそサルは、知能を発達させ、文明化することができた。では、サルとオオカミはどこが違うのか。
「オオカミはそれぞれの瞬間をそのままに受け取る。これこそが、わたしたちサルがとてもむずかしいと感じることだ。わたしたちにとっては、それぞれの瞬間は無限に前後に移動している。それぞれの瞬間の意義は、他の瞬間との関係によって決まるし、瞬間の内容は、これら他の瞬間によって救いようがないほど汚されている。わたしたちは時間の動物だが、オオカミは瞬間の動物だ」
時間の動物となり、知能を発達させ、文明化することはよいことなのか。そうとは限らない。サルとはどういう動物なのかを、突き詰めると以下のような実態が見えてくる。
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