ヘルツォークが彼らのなかに見出しているのは深い孤独だ。それがどのような孤独かといえば、スペイン人の著名な古人類学者フアン・ルイス・アルスアガが書いた『ネアンデルタール人の首飾り』のなかにある以下のような表現が当てはまるだろう。
「われわれはどうして多くの生物のなかで、これほど孤立しているのだろうか。人間が地球上のほかの種とまったく交信できないことを、どのように説明するのだろう」
『グリズリーマン』や『Encounters at the End of the World(世界の果ての出会い)』に登場する人々は、彼らが失ってしまったものを求めて、熊や南極大陸に引かれていったのだろう。あるいは彼らの奥底に潜む形質がそうさせるというべきかもしれない。
野島利彰の『狩猟の文化』には、以下のような記述がある。「人類は農耕民になる以前に百万年を超える長い期間、狩猟民であった。私たちは農耕民になってたかだか一万年しか過ごしていない。したがって、長い狩猟の時代に人類が獲得した形質がいまなお私たちを規定しているとしても、いっこうに不思議ではない」
そんなことも踏まえて、ここで筆者が注目してみたいのが、ラース・フォン・トリアーの新作『メランコリア』だ。この映画は二部構成で、ジャスティンとクレアという姉妹の世界が対置される。一部ではうつ状態に陥ったジャスティンが自分の結婚式を台無しにし、すべてを失ってしまう。おそらく彼女には、幸福な未来によっていまの自分が規定される儀式が耐え難かったのだろう。
しかし、惑星が地球に迫る二部では、事情が変わる。これまで常に想定された未来のために生きてきた姉のクレアは、終わりをどう迎えるかで頭がいっぱいになり、いまという瞬間も自分も見失っていく。これに対して、全裸で小川の辺に横たわり、惑星に見入るジャスティンは、過去や未来に縛られることなく、純粋な瞬間を生きている。筆者にはそれが旧石器時代人の眼差しに近いように思える。
人類は進化を遂げることで時間に縛られるようになった。幸福や様々な目標など未来を想定して生きることは決して悪いことではないが、それに囚われすぎると豊かな瞬間が零れ落ちていることに気づかなくなる。ショーヴェ洞窟の壁画には、旧石器時代人が感知したであろう瞬間の美が刻み込まれているように見える。 |