ダニエル・ネットハイム監督の『ハンター』の主人公マーティン・デイビッドは、レッドリーフ社から請け負った仕事を遂行するためにタスマニア島を訪れる。単独行動を好む彼は、奥地へと分け入り、黙々と作業を進めていく。彼がベースキャンプにしている民家には、母親のルーシーと、サスとバイクという子供たちが暮らしている。奥地とベースキャンプを往復する彼は、この母子と心を通わせていくうちに、自分の仕事に対して疑問を覚えるようになる。
しかし、マーティンを変えていくのは、決して純粋な心や家族の温もりといったものだけではない。この映画でまず注目しなければならないのは、余計な説明を削ぎ落とした表現だろう。
たとえば、マーティンという主人公は何者なのか。これまでどんな人生を歩んできたのか。どんな仕事をこなしてきたのか。なぜ人と関わることを避けようとするのか。あるいは、なぜバイク少年は言葉をまったく発しないのか。喋れないのか、喋らないのか。父親のジャラが行方不明になってからそういう状態になったのか、それとも以前からそうだったのか。この映画はそれをあえて説明せず、私たちの想像に委ねようとする。
そんな作り手の姿勢は、他の場面にも表われている。マーティンが大自然のなか、ひとりでタスマニアタイガーの痕跡を追い求める場面では、モノローグで彼の胸の内を表現することもできたはずだ。しかしこの映画は、言葉に頼らずに、彼の活動を十分な時間をかけてじっくりと映し出す。
それから、行方不明になったジャラの扱いも印象に残る。この父親がどんな人物であるのかを伝えるために、フラッシュバックで過去のドラマを挿入してもおかしくないところだが、そうしようとはしない。私たちはマーティンと同じように、写真や子供が描いた絵からこの父親のことを想像することになる。
このような表現の積み重ねが生み出す効果は決して小さくない。この映画からは、異なる二種類の触れ合いが浮かび上がってくる。もちろんひとつは、マーティンと母子との家族のような交流だ。そしてもうひとつは、マーティンとバイク、行方不明になったジャラ、消えゆくタイガーを結びつけるもので、それをどう解釈するのかは観客に委ねられている。
マーティンはタイガーを求めて奥地を探索するものの、なかなかその痕跡を見出せない。果たして彼は、単独でも時間をかければそれを見つけ出すことができたのだろうか。筆者にはそうは思えない。彼は腕利きのハンターだったことがあるのかもしれないが、いまは大切なものが欠けている。人間界で人との関わりを避けていたように、自然や動物との間にも見えない壁を作っている。タイガーは単なるターゲットに過ぎない、そういう冷たさを漂わせている。
そんなマーティンは、バイク少年が差し出す絵を通して手がかりを得る。タイガーを見つけたのが父親のジャラであることは明白であり、彼はジャラに導かれるようにタイガーに近づいていく。後に白骨化した死体を発見した彼は、ジャラがなにをしようとして命を落とすことになったかを考え、自分の仕事に疑念を抱くようになる。
しかしもうひとつ、彼が考えざるをえなかったことがあるはずだ。なぜジャラがタイガーを見つけたのかということだ。筆者は、自然や動物との関係や距離が違うからだと思う。 |