想田監督は撮影する前にリサーチをしない。だから、カメラを向けた瞬間には、被写体の一面ではなく存在そのものと向き合う。その積み重ねが、題材を超えた普遍的な世界に繋がっていく。『選挙』では、組織やシステムに順応していく人々の姿が、『精神』では、それらを受け入れられず、周縁に追いやられた人々の姿が浮き彫りになる。それは『Peace』にも当てはまる。というよりも、この番外編は、観察映画の本質を明らかにしているようにすら見える。
この映画を観ながら筆者が思い出していたのは、哲学者マーク・ローランズの『哲学者とオオカミ』のことだ。本書では、オオカミと暮らした経験を通して、人間であることの意味が掘り下げられる。ローランズは、サルを人間が持つ傾向のメタファーとして使う。たとえば、「サルとは、生きることの本質を、公算性を評価し、可能性を計算して、結果を自分につごうのよいように使うプロセスと見なす傾向の具現化だ」。だからこそサルは、知能を発達させ、文明化することができた。では、サルとオオカミはどこが違うのか。
「オオカミはそれぞれの瞬間をそのままに受け取る。これこそが、わたしたちサルがとてもむずかしいと感じることだ。わたしたちにとっては、それぞれの瞬間は無限に前後に移動している。それぞれの瞬間の意義は、他の瞬間との関係によって決まるし、瞬間の内容は、これら他の瞬間によって救いようがないほど汚されている。わたしたちは時間の動物だが、オオカミは瞬間の動物だ」
この記述はふたつの意味で興味深い。ひとつは観察映画を理解するヒントになる。テーマを決め、リサーチをし、背景や状況を踏まえたうえで被写体をある文脈に押し込め、結果を導くというアプローチは、時間に支えられている。これに対して観察映画は、瞬間を極力そのままに受け取ろうとする姿勢だといえる。だからこそ、観客も映像を瞬間として受け取る必要がある。
さらにこの『Peace』では、想田監督が自身の観察を通して見出したテーマもまた、時間と瞬間に関わっている。この映画に登場する野良猫たちも三人の人物もそれぞれに厳しい生活を強いられている。一匹の猫は前脚の一方が折れているうえ、腎臓が悪いために定期的に点滴を打たなければならない。泥棒猫の外見はこれまで苦労してきたことを想像させる。
柏木寿夫は、惰性と謙遜しつつ、割に合わない福祉有償運送をつづけている。柏木廣子は、福祉予算の削減で頭を抱えながらも、NPOをやりくりしている。橋本至郎は、肺がんでありながらタバコのPeaceを吸うのを唯一の楽しみにしている。観客は、彼のなかに突然、戦争体験が蘇る場面に心を動かされるかもしれない。しかしそれ以上に印象に残るのは、シャツとネクタイで身嗜みを整え、来客を外まで見送る姿だ。
筆者には、猫も人間も過去や未来に縛られることなく、瞬間を受け入れ、生きているように見える。ローランズは、サルの幸運が尽きたときに、人生で一番大切なものを発見すると書いている。この映画に私たちが不思議な安らぎを覚えるのは、瞬間のなかに大切なものが見えるからだろう。 |