想田和弘監督がドキュメンタリー『精神』誕生の背景や映画に対する様々な反応を綴った本書には、想田監督が標榜する「観察映画」とは何なのかを理解するためのヒントが散りばめられている。
想田監督は「こらーる岡山」という開かれた精神科診療所で、素顔で出ることを了承してくれた人だけにカメラを向け、『精神』を作り上げた。本書には、そんな登場人物たちとの対話も盛り込まれ、映画に対する厳しい意見が目を引く。要約すれば、診療所では見られない、本当に苦しんでいる部分、闇の部分が映し出されていないということだ。
それは確かに正論だが、『精神』は必ずしも精神病の実態に肉薄しようとする映画ではない。そういう作品を作るのであれば、リサーチが必要になるだろう。しかし想田監督は、先入観を持つことなく対象と向き合うためにリサーチをせず、目の前の人物が患者なのか職員なのかも分からないまま撮影を進めた。
では『精神』からは何が見えてくるのか。本書で筆者が注目したいのは、想田監督が、精神病に限定されない大きなテーマに、異なる表現でくり返し言及していることだ。
想田監督はなぜニューヨークを拠点に活動しているのか。「文化や価値観の異なる者同士が集まっているので、ニューヨークには一つの常識や規範というものがない。(中略)実際、僕は「他者」に出会うたびに、自分が成長していくのを感じた」。一方、日本については、「年々、閉塞感や孤独感が強まっているように思えた」と書いている。
彼は『精神』の編集中に、ある女性の映像を使うかどうかで深く悩んだ。そこには、彼女の今後の人生に悪影響を及ぼすかもしれない告白が刻み込まれていたからだ。迷った彼は、「人と深く関わる」ことの意味を自分のなかで再確認し、映像を使う決断をする。
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