想田監督は、映画の撮影に入る前にリサーチをしないし、こういうものを撮りたいとも思わないようにしている。『選挙』のときには、大学時代のクラスメートだった山さんの立候補を知り、ほとんど準備もなく撮影に入った。『精神』の場合は、想田監督自身が大学時代に燃え尽き症候群と診断されたことがあり、心の病に関心は持っていたが、だからといってリサーチをしたわけではない。義母を通して「こらーる岡山」の存在を知り、そこで撮影することにした。だからカメラを回す前に撮影の許可は得るが、監督自身も目の前にいるのが患者なのか、家族なのか、職員なのか最初はわかっていない。山本先生についてもほとんど何も知らなかった。
ということは、別の舞台を選んでいたとしたら、まったく違う映画になり、テーマすら変わってくることになる。突き詰めれば、想田監督は、題材やテーマに新鮮さや面白さを求めてはいない。では、観察映画に一貫性をもたらしているのは何なのか。それを明らかにするためには、彼の映画について考える以前に、現代のメディアの在り方に目を向けるべきだろう。想田監督は、メディアと個人の関係をこのように語っていた。
「受け手がいつも噛み砕かれた流動食のようなものばかりを食べさせられて、咀嚼力がどんどん弱くなっていくという状況があると思うんです」
確かに今の日本では誰もが、自分の頭で考え、解釈するのではなく、消化のいい情報を吸収し、それを単純に確認するためにものを見ることに慣らされている。想田監督はそんな現実に対して、情報や先入観に縛られることなく対象にカメラを向け、よく見ていけば、あらゆるものに発見があると考える。
実際、『選挙』と『精神』は、想田監督が個人的なコネクションで知った小さな世界を扱っているにもかかわらず、そこからは選挙や心の病といった題材を超えた大きな世界が切り開かれていく。『選挙』では、組織やシステムに順応していく人々の姿が、『精神』では逆に、組織やシステムの外に追いやられた人々の姿が浮き彫りになる。想田監督は、観察映画を通して社会と個人の関係やコミュニケーションの在り方を掘り下げ、日本社会の一面を鮮やかに描き出しているのだ。 |