渡辺哲夫は『祝祭性と狂気』のなかで、ニーチェのこんな言葉を引用している。かなり長いし、よく知られた文章なので、雑誌などではとても引用できないが、ブログやサイトなら許されるだろう。
君のそばを草を喰らいながら通り過ぎる畜群を考察し給え。彼らは昨日が何であり、今日が何であるかを知らず、跳び廻り、食い、眠り、消化し、再び跳び、かくして朝から晩まで、毎日毎日、彼らの快と不快に短く、すなわち瞬間の杭にしばりつけられて、それゆえに憂愁も倦厭も知らずに過ごす。これを見るのは人間には辛いことである。なぜなら人間は動物の前で、われこそは人間なりと胸を張ってみせているのに、動物の幸福に嫉妬の眼を向けているからである――まことに、人間がただ一つ欲していることは、動物と等しく倦厭もなく苦痛も伴わずに生きることであるが、しかし徒にこれを欲するのみである、なぜなら人間は動物のごとくこれを欲することができないからである。なぜ君は私に君の幸福について語らず、ただ私をじっと視るだけなのか?と人間が動物に仮に問うたとする。動物は答えのつもりでこう言うだろう。それは、私は言おうと欲したことをいつでもすぐ忘れてしまうからだ、と――だがそのとき動物はこの答えをまたすぐ忘れて黙り込んでしまう。だからこそ人間は動物を不思議に思うのである。
しかし人間は忘却を学びえず絶えず過ぎ去ったものに固執している自分自身についてもいぶかしく思う。彼がこんなに遠くまで、どんなに速く走っても、過去の鎖も一緒に走って来る。瞬間は忽ちにして来たり、忽ちにして去るのに、以前にも虚無、以後にも虚無であるのに、なおも幻影として再び来たり、次の瞬間の安らいを妨げる。これは実に驚くべきことである。……動物は直ちに忘れ、あらゆる瞬間が現実に死に、霧と夜のなかに沈み込み、永遠に消え失せるのを見る。動物はかくして非歴史的に生きる。
……一切の過去を忘却して瞬間の敷居に腰をおろすことの可能でない者、勝利の女神のごとく目まいも恐れもなく一点に立つ能力のない者は幸福の何たるかを決して知らぬであろうし、なお悪いことには、他の人々を幸福ならしめることを何もなさないであろう。
そして、想田監督の『Peace』を観たときに筆者が真っ先に思い出したのが、マーク・ローランズの『哲学者とオオカミ』だった。詳しくは読書日記を参照していただきたいが、哲学者のローランズは本書で、オオカミと暮らした経験をもとに、人間とはなにかを掘り下げている。サルを人間が持つ傾向のメタファーとして使い、オオカミとの違いを以下のように書いている。
オオカミはそれぞれの瞬間をそのままに受け取る。これこそが、わたしたちサルがとてもむずかしいと感じることだ。わたしたちにとっては、それぞれの瞬間は無限に前後に移動している。それぞれの瞬間の意義は、他の瞬間との関係によって決まるし、瞬間の内容は、これら他の瞬間によって救いようがないほど汚されている。わたしたちは時間の動物だが、オオカミは瞬間の動物だ。
想田監督は、「くよくよと過去の失敗を悔いることで、「いま」の意識が汚染され」と書き、ローランズは「瞬間の内容は、これら他の瞬間によって救いようがないほど汚されている」と書いている。現代では、瞬間が過去と未来、前後関係にがんじがらめにされ、瞬間の意味が見失われている。極端にいえば、生きていることや存在していることが見失われている。
想田監督の「観察映画」が私たちを引きつけるのは、そこに過去や未来、他の瞬間に汚染されていない「瞬間」があるからだろう。しかも、特にこの『Peace』という映画の場合には、登場する野良猫たちも、想田監督の義父も義母も、橋本さんもみな瞬間を受け入れているように見える。その姿は、先ほど引用したニーチェの文章の最後の部分を思い出させる。
……一切の過去を忘却して瞬間の敷居に腰をおろすことの可能でない者、勝利の女神のごとく目まいも恐れもなく一点に立つ能力のない者は幸福の何たるかを決して知らぬであろうし、なお悪いことには、他の人々を幸福ならしめることを何もなさないであろう。 |